母校へ
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6月某日、十数年ぶりに母校へ赴きました。
運動場の冷たいコンクリートを見るのがつらくて行きたくても行けなかった母校です。
私の母校は中学卒業と同時に休校になりました。卒業から10年以上が経ち、運動場はコインパーキングになり、講堂はスポーツジムとして使われていますが、教室はずっとそのまま残っていました。今回母校を訪ねたのは、このたびの東日本大震災で校舎の一部が損傷し、半分を取り壊すことになったからです。
校舎を見て回ると、中学時代の思い出が昨日のことのようによみがえってきました。
雨が降れば川をつくった廊下や、テープで補強された割れたままの窓ガラス、歪んで閉まらない教室の扉、部活で使った小道具、理科室の実験用器具、水遊びした水道…すべてあの頃のまま。並んで歯磨きしたトイレは、女の子同士ケンカもした場所。炊事室の缶ビール、男子がこっそり飲んでた。 1階の空き部屋で内緒のおしゃべりもしたっけ。ブルーのハッキョジャージはちょっとダサいけど大好きだった。背中に大きくハッキョの名前が入っていたから。
校舎のいたるところに散りばめられた宝物のような記憶が思い出されるとともに、これらがじきに跡形もなく無くなってしまう悲しさが後から後からこみ上げてきました。
だけど休校後、コインパーキングやスポーツジムで得た収益は、都内のウリハッキョの運営を助けていたということを、この日はじめて聞きました。母校は第一線を退いたあとも立派に「ウリハッキョ」として民族教育を支えていたのです。たとえ運動場が駐車場になり、校庭に駆け回る子どもの姿がなくても。校舎に子どもたちの笑い声が響かなくても。
なくなってしまう母校を前に、ただ悲しんでいた私に母校がしっかりしろと言ってくれたかのように思えました。
今年のウリ民族フォーラムは、同胞社会の現状を直視し、ありのままの岐阜同胞社会を映し出した内容となっていました。問題から目をそらさずもがきながらも起死回生をはかる岐阜同胞たちのひたむきな姿は、地域ごとに抱える問題は違えど、多くの同胞の共鳴を呼んだと思います。
フォーラムでは、休校した東濃ハッキョのことが取り上げられていました。同校の卒業生である岐阜県青商会会長は最後にこんなメッセージをくれました。
「私が学び、思い出のたくさんのつまった東濃ハッキョはもうありません。子どもたちには悲しい思いをさせたくありません」と。
数日前に見た母校の姿が浮かび、その言葉に大きく頷きました。
そして、こう続けました。
「子どもたちのために、ハッキョを守るために、われわれにできることはまだまだ沢山ある」。
「今から民族フォーラムを始めます!」との、会長の“閉会”宣言が、岐阜同胞だけではなくすべての同胞社会へ向けた“再開”宣言だと感じたのはきっと私だけじゃないと思います。 (淑)
仙台です。
仙台にいます。アンソロジー刊行会主催の復興支援コンサートに同行しました。在校生だけではなく、予想外に多くの同胞、地元の市民の方、韓国の留学生も見に来ていました。
コンサート終了後の焼肉パーティーで、東北の学校に三人の子どもを送っているアボジがしみじみ話していました。
卒業した山口の学校が廃校になってしまって寂しいと。子どもたちが通う東北のウリハッキョを母校と思い、新校舎建設に尽力すると。
各地から支援物資、激励メッセージなどを見ていると、ウリハッキョはすべての同胞の宝だということが実感できます。
金日宇さまへ
コメントありがとうございます。
暑い中仙台までお疲れさまでした。コンサート、たくさん集まったみたいでよかったです。
朝鮮学校卒業生に限らず、ウリハッキョはすべての同胞にとっての母校です。この共通意識は同胞社会の強みだと思います。