夏休み、東北へ②被災地編
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先週の予告どおり、今回は夏休み中の東北旅行の被災地編について書きます。
旅行初日目の15日、世界遺産・平泉(岩手)を観光した後、一ノ関から大船渡線に乗って宮城県の気仙沼に足を延ばしました。3月19日、震災発生1週間後に取材で訪れて以来、5ヵ月ぶりの訪問。今回は、被害のひどかった南気仙沼や唐桑、前回訪れた松岩や鹿折川沿いの地域ではなく、食事も兼ねて気仙沼港に行きました。JR気仙沼駅は山の方に位置しているので、まったく被害がなく、一ノ関-気仙沼間は震災後数週間で復旧。しかし、気仙沼以降の路線は陸前高田、大船渡駅などが流失してしまい、今も復旧のめどが立っていないとのこと。
津波の直撃を受けた港でしたが、だいぶ片付いて、以前の姿を少しずつですが取り戻し始めている印象を受けました。港の商業施設も営業を再開していて、観光客も少なからずいました。私が遅い昼食をとった、食堂とお土産店が合わさった複合施設。内装、外装ともにやけにきれいだなと思いましたが、店の人に聞いてみると案の定、浸水した1階部分を突貫工事で建て直して、営業再開にこぎつけたそうです。
震災直後は漁船が港の岸壁に乗り上げ、がれきがそこらじゅうに散乱するなどひどい状況だったそうですが、5ヵ月経った今は津波被害からある程度復旧していました。しかし未曾有の大災害の爪跡が簡単に消えるはずもなく、港の周辺には半壊した建物がいまだに多く残っていました。
今回、港を見て驚いたのは、水面が異常に高いということ。満潮に近い時間だったこともありますが、海水が今にもあふれ出しそうな状態でした。実際に海水があふれ出し、地面が冠水している箇所もありました。これは、海の方に問題があるのではなく、今回の地震で地盤が大幅に沈下したからです。気仙沼に限ったことではなく、東北全土で。
2日目は、午前中に松島を観光した後、石巻へ。松島海岸駅から矢本駅までバス、そこからJR仙石線で石巻を目指しました。
石巻も、3月22日、青商会「焼肉塾」の炊き出しを現地で取材して以来の訪問。駅員によると、震災当日、津波は駅前にも押し寄せ、水は胸の高さまであったそうです。それから5ヵ月。津波の爪跡が生々しく残っていた駅前は、今ではかなりの程度に復旧が進んでいました。
石巻は漫画家・石ノ森章太郎のゆかりの地。駅や街中には彼の作品のキャラクター像が立てられています
炊き出しの会場となった市役所前駐車場。地面が割れ、砂埃が舞い、「世紀末」的な雰囲気が漂っていた一帯はきれいに整備され、臨時の避難所だった市役所も元通りになっていました。
信号が消え、無残な姿をさらしていた市役所前の通りもきれいに。営業を再開した店がある一方で、1階部分が津波で破壊されたままの建物も所どころに残っていて、シャッターが閉まっている店舗も少なくありませんでした。
駅からタクシーに乗り、市内の沿岸部へ。最も被害の甚大だった場所の一つだと言われている南浜、門脇町に向かいました(3月に取材した炊き出しの場にも、この地域から避難してきたという被災者が多くいました)。まずは、海沿いの町が一望できる日和山へ。山を登っていると、「山の上から見るよりも直接町に入ったほうがいい」という運転手のアドバイス。山を下って町に入ります。
そして、眼前に広がる光景に言葉を失いました。
車を降りてしばらく立ち止まり、絶句、そして瞑目。
3月11日、そのとき。
南浜、門脇町は津波と、同時に発生した火災によって壊滅的な被害をこうむりました。運転手に聞いた当時の状況。
すべてを飲み込む大津波。建物が波にさらわれ、粉々に砕け散る。日和山のふもとでは波に流され行き場を失った車同士がぶつかり、流れ出たガソリンに引火、火の手が上がる。火災は3日間続いた。人々は日和山の上に逃げ、眼下の惨劇を見つめるしかなかった。
そして、いま。
かつて町があった場所。家、商店、本屋、コンビニ、ガソリンスタンド、病院が立ち並んでいたそうですが、その面影はありません。残るのは、わずかばかりの建物と土台だけ。その建物ですら、無傷なものは一つもなし。町を覆っていたがれきの多くが撤去されて、残ったのは一面の広大な空き地。生い茂る雑草が5ヵ月という時を感じさせます。元から人の住んでいなかった場所ではないか、そんな錯覚すら覚えるほどでした。
その場にいたのは、自宅から物を運び出す住人、警察と消防、ボランティアか地元の人なのか、がれきを片付ける若者たち。
がれき。かつて存在した暮らしの残骸――。市内のあちこちには撤去された大量のがれきがうず高く積み重なっています。いまだに海水が引かず、冠水している場所もあちこちに。立っているとハエが大量にたかってきて、数分と同じ場所にとどまっていられません。
写真奥に写る壁みたいなものはがれきの山
上の写真の拡大版。土手の上に積み上げられたがれきの山がどこまでも延びている
県道240号石巻女川線を挟んで向こう側、日和山のふもとにある門脇小学校。火事で真っ黒になった校舎が被害の凄惨さを物語っています。
震災当日、子どもたちは、校庭に避難していた住民たちとともに日和山に避難。津波は学校まで押し寄せ、火の手は同校にも燃え移ったそうです。門脇小学校の近くにある日和幼稚園の園児を乗せた送迎バスが山に通じる坂の上り口で津波にのまれ、乗っていた人たちが亡くなったという胸の締めつけられるような話も聞きました。
2時間ほどの滞在でした。前述の初老のタクシー運転手も被災者で、自宅は全壊。仮設住宅にはいまだ入れず、現在も避難所暮らしを続けているそうです。
帰り際、日和山の上から見た石巻の海はあの日の津波がうそのように静かで穏やかでした。
当初、両親から東北への家族旅行の話を聞いて、複雑な気持ちになりました。「被災地を見る」と言われたとき、被災地は見世物ではない、物見遊山なんてとんでもないと否定的に思ったのも確かです。被災地の現状は依然厳しく、復旧、復興に関しても複雑な要素が絡み合って、安易な楽観論などおくびにも出せない、そんな圧倒的な現実を目の前にして、私などただ数回被災地を訪れただけの人間は立ちすくむしかありません。でも今回、被災地を含めて東北地方に足を運んでよかったと思っています。実際に自分の目で見ないとわからないこともある。限られた時間、限られた場所であっても。
被災地に立つ2本の松の木。津波にも流されずに残っていました
今後もさまざまな機会を借りて東北、そして被災地を訪れたいと思います。(相)