台風の日に思ったこと
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先日、日本列島を襲った台風15号。
各地で大きな被害をもたらし、22日午前までに死者10人、行方不明5人に達しました。紀伊半島を中心に甚大な被害を出した9月上旬の台風12号も合わせて、今年は台風の「当たり年」なのでしょうか。
みなさんは無事でしたか。
私は、というと、台風が関東地方に上陸した21日は「早く帰るように」という会社の勧告もあり退勤時間を早めて4時ごろ会社を出たのですが(今考えると遅すぎる!)、駅に向かう途中、通勤に利用するJR路線の電車運行見合わせの報に接しました。その時はまだ危機感はあまりなく、その時点でまだ動いていた地下鉄など私鉄を乗り継いで帰ればいいとたかをくくっていました。
雨宿りに状況の様子見も兼ねて喫茶店でコーヒーを飲んでいたのですが、当たり前というべきか、時が経つにつれて状況はどんどん悪化。自宅に向けて動き出した頃には私鉄の運行も雪崩式にストップ、帰宅の足を完全に失い、見事に一時帰宅困難者、いわゆる帰宅難民の仲間入りを果たすことになりました。
しかし幸いJR、私鉄ともに深夜前に順次復旧したおかげで、電車を乗り継ぎながら夜中12時ごろに何とか千葉の自宅に戻ることができました。
「帰宅難民」。この言葉を聞くと、東日本大震災に襲われた3月11日のことを思い出します。結局、あの日私は帰宅手段を完全に絶たれ、社内で一晩を過ごしました。「これから一体どうなるのか」。震源地から遠く離れた東京にいながらも形容しがたい不安と恐怖に襲われた、あの「3・11」の夜に比べたら、今回の台風とそれによる帰宅の苦労なんて大したことじゃない、そう思えます。
台風の翌日にこのブログを書きながら、「もし東日本大震災と今回の台風が同時に襲ってきたら」。そんな世にも恐ろしい想像をしてしまいました。自然がひとたび牙をむけば、人間という存在はあまりに小さく、営々と築き上げてきた文明も儚く崩れてしまうものなのかもしれません。
以下、21日に感じたことを脈絡なくいくつか書きます。
台風の日における無用の長物=傘。
街はさながら「傘の墓場」でした。裏返った傘、骨組みだけになった傘、空高く舞い上がる傘布、そして原型を留めないほど破壊され道端に捨てられた残骸…どんな丈夫な傘も今回の台風の猛威の前では無力。高価なブランド傘から安物のビニール傘まで、昨日一日でどれほど多くの傘が破壊されたのか、まったくもったいない。壊れるとわかっていて傘を広げて、そして壊れた。いわば確信犯的破壊、「傘の虐殺」。
私は、というと、早々と無駄な行動はやめて傘をたたみ、猛烈な雨風の中を歩きました。安物のビニール傘とはいえ、無意味に壊したくなかったので。あの状況で、傘は雨を防ぐという本来の目的を果たせないばかりか、壊れた傘が他の通行人に危害を加えるおそれもあります。台風の時には傘をさすのをやめましょう。
もう一つは、帰宅難民について。自分のことを相当棚にあげて書きます。
東日本大震災に続いて、今回も首都圏で大量の帰宅難民が発生しました。「何でこの人たちは超強力な台風が来るとわかっていて、こんな時間にのろのろと帰ってるんだ」と思いませんか?
3月11日の大地震(地震は常に突然起こりますが)と違って、今回の台風15号は間違いなく関東地方を直撃すると予報が出されていました。いわば「鉄板中の鉄板」。名古屋では100万人以上に避難勧告が出されていましたし、関東の人たちもこの台風の猛烈な威力を当然想像できたはず。しかし、普段と変わらぬ行動を取る(取らざるを得なかったのか)サラリーマンや学生たち。
予想通りというべきか、台風が近づくと鉄道が動かなくなり、多くの帰宅難民が発生し、駅や街が混乱し、電車運転再開後も混乱が必要以上に長引きました。これはひとえに会社や企業の危機管理能力、状況判断能力の欠如によるものではないでしょうか。交通手段がマヒしたことそれ自体は台風という自然災害が原因ですが、大量の帰宅難民発生や駅での混乱など一連のパニックは人災だと思います。会社を休みにするか、早い時間からどんどん帰宅させるか、仕事の関係でそうできない人は職場に留まり台風が過ぎ去るのを待つかすれば、あれほどの混乱は起こらなかったはずです。
私の職場では午後の早い段階からすぐに帰宅するよう勧告がありましたし、知り合いの職場では午後から全社員を帰らせたそうです。一方で、一部の朝鮮学校では児童、生徒たちの下校時に交通手段がストップし、保護者たちが車で救出作戦を展開したとか。
最悪だったのは、中途半端な時間に退勤して会社にも戻れない、家にも帰れないというパターン。まさに私がそうですが、これは自分の危機意識の希薄さが招いた結果です。
今こそ惰性から脱皮して、自然災害に対する新たな備えを個人そして企業、社会レベルで構築すべきだと思います。(相)