朝鮮舞踊の大母
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今日は、昨年生誕100周年で注目が集まった朝鮮舞踊家・崔承喜(1911~69)について。
2011年が暮れていく12月21日、東京・文京シビックホールで崔承喜讃フェスティバル(主催:同実行委員会)が行われ、エッセイストの黒田福美さんを司会に迎え、俳優の松島トモ子さん、舞踊家の朴貞子、李美南の両氏がご自身と崔承喜について思い出を語った。
戦時中、中国東北部で産まれた松島さんは、日本が敗戦したことから身を隠す必要があり、生後10ヵ月まで日の光が差さない暗い部屋で育ったという。その影響からか、足が曲がってしまい、帰日後、松島さんの母は、崔承喜さんのような健康的な足に、とモダンダンスの第一人者とされる石井漠(崔承喜の師匠)のもとに娘を通わせる。「鞍馬天狗」など数々の主演作を持つ松島さんは、「崔承喜という舞踊家がいなければ自分が芸能界に入ることもなかった」と会場の人たちにその縁を語ってくれた。
韓国舞踊家の朴貞子さんは、韓国における崔承喜研究が1987年の民主化宣言以降にやっと始まったことを紹介しながら、南北の分断で、越北芸術家の実相が伝えられなかったもう一つの歴史を伝えてくれた。
そして、長らく金剛山歌劇団舞踊手として活躍した李美南さん(朝鮮の人民俳優)は、やはり崔承喜に憧れ、彼女が創作した舞踊を踊ってきたこと、とくに2011年11月24日から3日、平壌で行われた崔承喜先誕行事に参加した報告をしてくれた。
崔は、朝鮮が日本の植民地から解放された後、北京からソウルを経て朝鮮北部に渡るが、「祖国解放後の崔承喜」について日本に伝わっている事実は圧倒的に少ない。現役の舞踊手として、崔の作品をその愛弟子たちから学んできた李さんは、舞踊家・崔承喜の功績を5点に整理して述べてくれた。
その功績とは、第1に1946年国立崔承喜舞踊研究所を設立して、多くの弟子を育てたこと。
第2に、朝鮮舞踊を舞台芸術化する過程において、独舞「チャンゴの舞」、群舞「扇の舞」「真珠の踊り」「牧童と乙女」「荒波を越えて」など300種の舞踊作品を創作したこと。なかでも音楽を重要視した点を挙げ、「崔承喜舞踊団の舞踊研究所の専属の音楽家として、カヤグム、チャンゴなど、あらゆる楽器に精通していた崔玉三を初代音楽監督に迎え入れた」。
第3に「朝鮮民族舞踊基本動作1・2」(1:1958.3.15発行、2:1958.9.30発行)を、60年代には子どものための「朝鮮児童舞踊基本」(1963年発行)を発行し、朝鮮舞踊を理論化したこと。「舞踊は音楽のように楽譜はない。舞踊を音楽と重ねて理論化、体系化し、基本動作として完成させたことは大変な功績。その民族舞踊教則本が全国に脈々と伝わって、海外にも在日コリアンにも伝わっている。崔承喜先生の数ある中のもっとも偉大な業績だと思っている」。
第4に、朝鮮半島が日本の植民地にあった36年間、民族舞踊の遺産が喪失していることに心を痛め、自ら朝鮮民族舞踊の遺産を発掘し、その保存に努めたこと。「たとえば、金剛山のお寺に舞踊が上手なお坊さんがいると聞けば、研究所に呼んで1週間も寝泊まりしてもらいながら見せてもらい、変わった踊りをする海女のおばあさんがいると聞けば、わざわざ遠くまで訪ねていってその踊りを見せてもらう…。…最先端の舞踊を作るだけではなく、民間の生活の中から生まれる舞踊、宗教的な舞踊など古い舞踊遺産を発掘してそれを保存する作業を精力的に行った」。
第5に、崔承喜舞踊団として、朝鮮民族舞踊を世界的に広めたこと。「1950年代から60年代にかけて、世界各地で行われた国際的な交流友好親善のためのコンクールをはじめ、いろんな機会に朝鮮を代表してでかけ、旧ソビエト、中国、東欧諸国などで朝鮮民族舞踊を世界的に普及・宣伝した」。
異国で朝鮮の民族舞踊を60年以上も踊り続け、携わっていられたのは、「崔承喜先生の残した舞踊遺産があったからこそ」と語る李さんは、自身にとって崔承喜先生は「恩人」であり、「朝鮮舞踊の大母」だと誇らしげに話されていた。
フェスティバルでは、崔承喜の舞踊映像が上映され注目を浴びたが、この映像は1950年代から60年代に朝鮮から日本に渡ってきたものだ。当時、日本で崔承喜の日本公演を実現しようと願う文化人、政治家は多く、そのために訪朝する人も多かった。
在日同胞舞踊界の草分け的存在である李さんが、崔承喜の朝鮮での活躍を彼女がかつて喝采を受けた日本に正確に伝えてくれたことが、とても意義深いことに感じられた。
静かな会場で、半世紀前の崔承喜の映像を見、植民地時代に収録された彼女の歌声を聞いていると、文化の持つ圧倒的な力が胸に迫ってきた。
朝鮮では、今も崔承喜の愛弟子たちが後進の指導に励んでおり、今回訪朝した在日同胞舞踊家も基本動作の講習を受けてきた。李さんの発言の中では舞踊家の高定淳さんによる基本動作も披露された。(写真撮影:金日泰)
いつの日か崔承喜の舞踊遺産を朝鮮と日本が共有できる日が来る―。フェスティバルが投げた熱いメッセージが、年明けの今でも頭から離れない。(瑛)