高校無償化をあきらめない
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無償化制度が始まって2年4ヵ月が経った今も、外国人学校の中で朝鮮高校だけが排除される、という異常な事態が続くなか、昨日7月18日、東京・永田町で「朝鮮学校への高校無償化の即時適用を求める院内集会」が行われた。
日本社会で、「朝高排除」は、どう捉えられているのだろうか。現段階で、差別が続けられているということは、これが「差別」だと認識する人が少ないからだろう。もっとも、政府が率先して差別していることで、「朝鮮学校は差別してもいいものだ」というお墨付きがつき、状況はますます悪くなっている。だからこそ、地方では朝鮮学校への補助金支給をめぐって、「子どもの学ぶ権利」を無視したさまざまな圧力がかけられているのだ。
そもそも、高校無償化法には、各種学校認可を受けた外国人学校を対象とすべき、とある。それが執行段階で止められている。「高校無償化の朝鮮学校の現段階」と題して話した田中宏・一橋大学名誉教授は、「民主党マニフェストで唯一実現した高校無償化。外国人を含めたすべての者を対象にした画期的な法律が画竜点睛を欠いている」と一刻も早い適用を訴えられたが、日本政府は恥の上塗りをいつまで続ける気なのだろう。
集会では、国会議員からの発言、文部科学省への要望、新たな署名活動、またこの差別を世界の国連機関に訴えるためのアクションプランが示された。それにしても、毎回この人たちの発言に奮起させられ、今なお続く不条理を解消できずにいる大人として申し訳ない気持ちで一杯になる。それは現役の朝鮮高校生、無償化排除を願いながらも、就学支援金を受給できないまま朝高を卒業した彼、彼女らが発する言葉だ。
大阪朝鮮高級学校卒業生で、現役東大生の申泰革さんは、「朝鮮学校は教育内容で劣る面がないのに差別されている。それを証明したくて、東京大学を目指しました。朝高には母子家庭に育ち、放課後にバイトをする子、修学旅行に行けない子もいました。本来なら、そういう子たちがこの場で発言すべきだと思います。(朝鮮学校が制度的に保障されたなら)彼らはもっと学校を楽しめたと思います」と学友たちに思いを馳せながら、「一人のエリートや落ちこぼれを作ろうというのではなく、みんなで頑張っているのが朝鮮学校。差別もあり解決すべき問題はたくさんあるが、声をあげて頑張っていきたいです」と力強く語った。
教員を目指し、この春、東京・小平の朝鮮大学校に入学した趙娜来さんは、「この2年間の経験、そして何も変わろうとしない現状に2つの恐ろしさを考えています」と切り出した。
…ひとつは、いわゆる無償化除外の理由に対する論理的かつ冷静な考察が、どんどんなされなくなっているのではないか、という思いです。除外、審査手続、凍結、審査再開、凍結を繰り返す、その時々の理由をきちんと説明できる人がどれくらいいるのでしょうか。
その理由一つひとつに正当性がある、と断じて思いませんが、その都度説明されるいわゆる「理由」ではなく、とにかく「朝鮮学校―北朝鮮―核―ミサイル」というムチャクチャで幼稚な、そしてあいまいな図式が日本社会に蔓延しているという実感が恐ろしいと思っています。複雑な歴史的経緯を持つ色々な懸案事項を極めて単純化させて「敵」を作り、排除しようとするこの国の象徴がこの無償化除外ではないかと思います。
もう一つの恐ろしさは、無償化問題を含めて、あきらめ、絶望していくことの恐ろしさです。正直、今の高3への適用が難しいという気分が私たちの中にないとは言えません。あきらめや絶望には色々あります。日本に対するもの、朝鮮人であることに対するもの、そして悪いのは朝鮮だという考えからの祖国に対する絶望。。。
私は、私たちは、これらの、どのあきらめや絶望も拒否します。
朝鮮人としてのしっかりとしたルーツと自覚をもって、この日本という国で日本の若者と手を取り合って日本と朝鮮の輝かしい未来を築いていくということを、あきらめようとは思いません。そのための第一歩としての無償化適用をぜがひでも実現しなくては、と思います。小さくもあり、大きくもある一歩だと思っています…。
差別の中でも、このような言葉を紡ぎ出せるのがウリハッキョ、ウリハッセンの底力だ。権力の差別に屈しない高校生たちに、ふたたび新しい力を授けてもらった。(瑛)
Unknown
こんばんは。
この記事を、「朝鮮学校無償化問題FAQ」のブログ紹介記事からリンクさせていただきました。
http://w.livedoor.jp/mushokamondai/d/%a5%d6%a5%ed%a5%b0