長生炭鉱水没事故と遺族のクンジョル
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2月2日の土曜日、山口県の宇部へ行ってきた。長生炭鉱水没事故犠牲者追悼碑の除幕式を取材するためだ。
宇部市西岐波の長生炭鉱(海底炭鉱)で落盤、水没事故が起こったのが1942年2月3日。そのときの犠牲者は183人にのぼり、そのうち136人は強制労働を強いられていた朝鮮人だった。犠牲者の遺体は引き上げられることなく、今も海底に眠ったままだ。
追悼碑建設を中心になって進めてきたのは「長生炭鉱の“水非常”を歴史に刻む会」。1991年に結成された日本人が中心となる市民団体だ。活動目的は、①ピーヤ(排気のための筒)の保存、②日本人としての反省を込めた碑文と全犠牲者の名を刻んだ追悼碑の建立、③証言、資料の収集と証言集の編纂―の3つである。
今回、最後に残っていた追悼碑がついに完成したわけである。20年以上の歳月を、山口県朝鮮人強制連行真相調査団、韓国の遺族会と連携をとりながら進めてきた事業だった。
結成の翌年の92年からは毎年、事故のあった日を前後して追悼集会を持ち、93年からは韓国の遺族も追悼集会に招待してきた。今回の除幕式にも韓国の遺族会から16人が、日本国内の遺族4人が参加した。遺族たちはみんな、追悼碑の完成を喜ぶとともに、碑完成に尽力してきた人々に心からの感謝の言葉を繰り返しのべていた。
追悼碑は、ピーヤを模った2本の追悼碑があり、向かって右側は「日本人犠牲者」、左側は「強制連行 韓国・朝鮮人犠牲者」と彫られている。その前には犠牲者の名前が書かれた木札が納められた献花台がある(写真下)。
除幕式をはじめとする行事や遺族のことなどは、月刊イオ4月号、朝鮮新報で詳しく報告する。
犠牲になった朝鮮人たちは、日本の朝鮮に対する侵略・植民地支配と、朝鮮人強制連行・強制労働の結果、尊い命を異国の地で落とさなければならなかった。「刻む会」のメンバーや韓国の遺族は何度も山口県や宇部市に追悼碑の建設などを要請したが、ことごとく拒否されて来たという。遺族たちの「刻む会」メンバーに対する感謝の気持ちは、そのまま日本政府や行政に対する怒りでもある。
遺族たちも、犠牲者の息子や娘となるとみんな高齢だ。すでにこの世を去った人たちも多い。一家の大黒柱を失った遺族たちは、その後の人生を本当に苦労を重ねながら生きてきた。
除幕式の翌日、事故が起こった2月3日、遺族たちは炭鉱跡を訪れた。
今も海から突き出るピーヤが、そこに海底炭鉱があったことを伝えてくれている。
ピーヤを目の前にした砂浜に足を踏み入れると、何人かの遺族が砂の上にうずくまるようにしてクンジョル(おじぎ)をはじめた。その姿に心を揺さぶられるとともに、自分がこの日本で何をしなければいけないのか、使命の一つを突きつけられたように思った。(k)
植民地支配されて者の悲劇
この度 長生炭鉱水没事故犠牲者追悼碑の序幕式を迎えることができ、御遺族の方々の長年の胸の閊えが取り除かれたのではないでしょうか?あらためて異国で無くなった犠牲者の皆様の御冥福を祈りたいと思います。私は宇部市在住ですので 近々訪れてみたいと思います。
気になったことがあります。それは沖縄戦で犠牲になった朝鮮人の実態が把握されていない現実です。『平和の礎』には一部の朝鮮人戦没者の氏名だけが刻まれています。一日も早く全戦没者の氏名が刻まれることを強く望みます。