被災地の朝鮮学校
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2011年3月11日の東日本大震災から2年が経ちました。
先月、ある雑誌の編集者から、被災地にある朝鮮学校の震災後の歩みと現状、課題などについて寄稿してもらえないかという依頼を受けました。震災後の朝鮮学校の姿は日本のマスメディアで一部の例を除きほとんど報道されることはありませんでした。日本の学校と同じように地震や原発事故の被害を受けていても自治体の対応は大きく異なる、日本社会への問題提起も含めて当事者の立場から書いてほしいとの依頼でした。
私は被災地の住民でも朝鮮学校の保護者でもなく、言葉の厳密な意味での「当事者」として文章を書いていいのかという思いはありましたが、現地を何度か取材した記者として見聞きしたこと、震災2年を迎えるにあたって自分自身が思うことを書くことにしました。
以下、寄稿した記事の結論にあたる部分を一部加筆して掲載します。
東北地方の朝鮮学校はこのたびの震災で大きな被害を受け、今も苦しんでいる。震災から2年が経ち社会的な関心が薄れ始めている今こそ、更なる関心を喚起し、継続的な支援を途切れさせてはいけないと感じる。
地震で校舎を失った東北朝鮮初中級学校(仙台市)では新校舎建設、東電福島第1原発爆発事故による放射性物質汚染被害に悩まされる福島朝鮮初中級学校は隣県の新潟朝鮮学校への「集団疎開」「合同授業」など、この間、被災した学校の再生に向けた取り組みがさまざまな形で進められた。それらは幾多の困難に直面しつつ、いまだ途上にある。
近年、在日朝鮮人社会でもコミュニティの縮小や弱体化が指摘されている。同胞人口の過疎化が進む東北地方では震災前からさまざまな問題が噴出していた。震災を機に、地域在日社会の核である「ウリハッキョ」(「私たちの学校」=朝鮮学校を指す)の意義が再確認されたと思う。その重要性は今後ますます高まるだろう。福島朝鮮学校の新潟における「合同生活」(「集団疎開」)も朝鮮学校を中心に形成された地域コミュニティがあったからこそ実現したものだ。そして、その「集団疎開」を原発事故後の先駆的な取り組みとして評価した視点があることも指摘しておきたい。(藍原寛子「放射能『集団疎開』の成果と課題」『日経ビジネスオンライン』2011年11月9日号)
朝鮮学校は日本の1条校に準じた教育体系を持ちながらも、行政上は自動車学校などと同じ各種学校として扱われ、政府および地方自治体の各種保障の枠外に置かれることで不利益をこうむってきた。福島朝鮮学校は原発事故当初、被ばく対策の対象から除外され、東北朝鮮学校は震災直後に補助金支給を打ち切られた。本稿では言及できなかったが、震災被害を受けた茨城朝鮮初中級学校(水戸市)も市からの補助金を凍結されている。震災前から財政難に直面していた学校にとって、行政からの支援打ち切りは大きな打撃となる。学校を守るためにはもっぱら同胞の自助努力に頼るしかないのが現状だ。
今回の震災が「日本社会のあり方を根底から変えた」とよく言われるが、果たしてこれは事の本質をついた見方だろうか。震災が日本社会のあり方を変えた側面を否定しないが、その一方で、日本社会が本来内包していた矛盾や格差、対立などの構造がより浮き彫りになったとは言えないか(個人的にはこちらの方がより重要なポイントだと思われる)。被災地の朝鮮学校にとってそれは、上で言及した行政のあからさまな差別的施策や、それを(積極的にしろ消極的にしろ)下支えしている日本社会の無理解あるいは偏見として表出している。朝鮮学校は長い間、日本社会から「見えない存在」とされてきたが、それは果たしてどちらの側が扉を閉ざしたからなのか。
震災直後、ガス、水道が止まり、ガソリン不足で車での移動もままならない中、東北朝鮮学校の教職員や総聯の活動家、地域同胞らは学校で寝泊まりしながら被災住民の支援に駆け回った。1日の食事を2回に減らし、浮いた分の食材を使って避難所におにぎりを届けたり、炊き出しも行った。福島朝鮮学校は県指定の避難所として多くの日本人を受け入れた。「助け合うのに国籍や民族は関係ない」と彼らが口を揃えて語っていたのが今でも思い出される。
震災直後、東北朝鮮学校の食堂には「大地は揺れても笑っていこう!」という尹鐘哲校長考案のスローガンが貼られ、今でも残る。長く険しい復興への道を一歩ずつ進む被災地の朝鮮学校。同じ地域住民として、この社会を共に作っていく隣人として、国籍と民族の違いを認めつつも、それを超える友好と連帯が生まれることを在日朝鮮人の一人として願ってやまない。(相)