「忘れられた皇軍」という衝撃
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先週日曜日(12日)の深夜、日本テレビで放映された「NNNドキュメント’14 反骨のドキュメンタリスト ~大島渚 『忘れられた皇軍』という衝撃」を見た。1963年8月16日に日本テレビで放送されたドキュメンタリー作品「忘れられた皇軍」の再放送と制作に携わった関係者の回想などで構成された約1時間の番組だ。
先の太平洋戦争で日本軍の兵士、軍属として戦傷を負いながらも、戦後、日本人の元兵士には与えられる恩給を与えらなかった「元日本軍在日韓国人傷痍軍人・軍属」(以下、傷痍軍人)たち。作品は、彼らが「元日本軍在日韓国人傷痍軍人会」として日本政府に補償を求める活動を追ったドキュメンタリーだ。昨年1月に亡くなった映画監督・大島渚氏が制作した同作品は再放送やDVD化がされなかったこともあって、「伝説的ドキュメンタリー」と称されている。実に半世紀ぶりの放送。作品名を聞いたことはあっても、実際に見るのはこれが初めてだった。
冒頭、番組製作に関わったカメラマンなど当時のスタッフ3人の証言に引き続いて『忘れられた皇軍』全編(30分弱)をCMなしのノーカットで放映。その後、大島監督の妻で女優の小山明子氏、ジャーナリストの田原総一朗氏、映画監督の是枝裕和氏らのコメントが語られた。
鑑賞した観想を一言で表すなら、打ちのめされたとでも言おうか。短い作品だが、映像、ナレーション、音楽を含めて全編に怒りが満ちていた。何と表現すればいいのだろう。心をざわつかせ、かきむしるような後味を残す作品だった。
作品は、失明した両目にサングラスをかけている元日本軍傷痍軍人・徐洛源さんのアップから始まる。混雑する電車内を歩きながら物乞いをする徐さん。「このように醜い様子をさらして誠に申し訳ございません。私は両目をなくし、片腕をなくし…どうかご理解あるご支援をお願い申し上げます」。その言葉を語る口元も火傷の痕なのだろうか、皮膚がただれ、引きつっている。
カメラは、在日韓国人傷痍軍人会のメンバーが戦傷に対する補償を求めて首相官邸、外務省、大韓民国代表部と陳情行動に回り、街頭で支援を訴える姿を追い続ける。彼らが掲げるのぼりには「眼なし、手足なし、職なし、補償なし」という手書きの文字。モノクロ画面に映し出される、金属の義手や義足をつけた傷痍軍人たち。カメラはこれでもかというくらい彼らの姿をクローズアップでとらえる。
しかし、彼らの必死の訴えはどこにも聞き入れられない。
1963年、オリンピック開催を翌年に控えた東京。 戦後18年、高度成長の軌道に乗り始めた日本の首都は、傷ついた身体をさらしながら歩く傷痍軍人たちの姿が「似つかわしくない」ように映るほど変貌しつつあった。カメラは、補償を訴えたり募金活動をしたりする白装束姿の彼らを横目で見ながら「われ関せず」といった様子の日本人の姿もとらえる。両者の対比は悲しいほど残酷だ。外務省前では吉田茂元首相が乗った車が傷痍軍人たちのそばを何事もなかったかのように通り過ぎる。
作中、とくに印象的だったのが、陳情を終えた傷痍軍人たちがお酒を飲むシーンだった。みなで軍歌を歌っている最中に口論が始まる。徐さんが突然激昂するとサングラスを外し、眼球のない両目を指で押し開く。カメラがその顔をアップでとらえる。さらにシャツを脱いで、上腕部付近からちぎれた片腕をあらわにする徐さん。叫び声とともに眼窩から涙がこぼれる。
「この悲しい争い。仲間にしかぶつけることができない、やり場のない怒り。これは醜いか、おかしいか」
ナレーションに思わず胸がつまった。
場面は変わって、徐さんの家。彼の妻(日本人)も失明していてサングラスをかけている。2人の食事を手伝うのは妻の妹だ。徐さんの唯一の楽しみはラジオで野球放送を聞くこと。国鉄の金田投手のファンだという。横になりながら、眼球のない目を閉じてじっとラジオを聞く徐さん。
「もっと大きな喜びが与えられるべきではないのか。しかし、今この人たちは何も与えられていない。私たちは何も与えていない」
制作者の心の叫びを表すようなストレートなナレーション。
ラストシーンも印象的だった。海水浴客に混じって歩く徐さんの姿が映し出され、ナレーションが語りかける。「日本人たちよ、私たちよ、これでいいのだろうか。これでいいのだろうか」。そして、サングラスをかけた徐さんの目のクローズアップで終わる。
「カメラは加害者」とは大島監督の言葉だが、戦傷者が感情をあらわにした瞬間を容赦なくとらえるカメラワークはときに「暴力的」ですらあった。全編に流れるアート・ブレイキーのジャズも作品にある種の「不穏な空気」をかもし出し、見る者の心を揺さぶるようだった。
ここで「元日本軍在日韓国人傷痍軍人・軍属」に対する補償問題の経緯について簡単に記したい。
日本の植民地であった朝鮮半島や台湾から「日本人」として徴兵された軍人・軍属たちは戦後、日本国籍がないという理由で恩給法や援護法の支給対象から外されてきた。戦後のGHQ占領下で支給されていた障害年金は当時、日本国籍を所有していた在日朝鮮人の元軍人・軍属にも支給されていた。しかし52年4月28日、サンフランシスコ講和条約の発効時、日本政府は在日朝鮮人に国籍の選択を認めず、法務省の一方的な「通達」によって日本国籍は剥奪された。
条約発効2日後の4月30日、「戦傷病者戦没者遺族等援護法」が公布される。同法は4月1日にさかのぼって適用されたが、「戸籍法の適用を受けない者については、当分の間、この法律を適用しない」という付則がつけ加えられた。これによって、外国人登録はしているが日本国籍を持っていた朝鮮人は年金の支給対象から排除されてしまった。戦傷のため働けない彼らの命綱ともいうべき年金が一方的に切られては、生きることは難しい。街頭に立って苦境を訴え、関係各所に陳情する彼らを記録したのが「忘れられた皇軍」なのだ。
62年の厚生省通知を通じて日本政府は日本国籍取得という方法で年金を受給するよう促す。しかし「帰化」しない人も少なからずいた。65年の日韓協定締結後も彼らは援護法から排除され、一銭の年金も支給されずに放置された。
これら法律の国籍条項が憲法第14 条の「法の下の平等」や国際人権規約の「内外人平等原則」に違反しているとして、77年の台湾人元日本兵や遺族らによる訴えを皮切りに日本政府相手に裁判が起こされる。
「元日本軍在日韓国人傷痍軍人・軍属」による裁判は90年代に入って数件起こされたが、2000年代初頭までに敗訴が確定。判決には、「外交交渉を通じて適切な対応を図る努力をするとともに、援護法の国籍条項や付則を改廃して同法の適用の道を開いたり、行政上の特別措置を取ったりすることが強く望まれる」「憲法の平等原則に違反する疑いがある」、「国会にはできるだけ速やかに条項改廃や新たな立法措置で、差別的な取り扱いを是正することが要請されている」という意見も盛り込まれた。しかし、補償は立法府の裁量的判断に委ねられており、国籍による差別は立法府の裁量を逸脱していないという論理で請求は棄却された。
2000年5月、「平和条約国籍離脱者等の戦没者遺族への弔慰金等支給法」が成立し、戦死傷者遺族に対して260万円の弔慰金、戦傷者本人に対して見舞金200万円と特別給付金200万円の計400万円が支給された。しかし、日本人には国家補償の精神に基づいて年金が支給されるのに対し、在日朝鮮人、台湾人には1回限りの支払いのみ。支給額も、同様の被害を受けた日本国籍者と比べて顕著な差があった。
大島監督が在日朝鮮人問題に取り組むきっかけとなったといわれる「忘れられた皇軍」。彼はこの作品の制作後も傷痍軍人たちと関わり続けたという。番組内では、彼らが起こした裁判に喪章をつけて入廷する監督の映像も流れた。
彼は何を訴えたかったのか。映画監督の是枝裕和氏が番組内で語った以下の言葉がその答えなのだろうと思った。
「大島さんが生涯批判し続けたのは『被害者意識』というものだった。『あの戦争は嫌だったね』『辛かったね』という、自分たちが何に荷担したのかということに目をつぶって、被害意識だけを語るようになった日本人に対して、「君たちは加害者なのだ」ということをあの番組で突きつけているわけですよね。その強烈さに、見入った人間たちは打ち震えた」
ラストシーンのナレーションも、大島監督が視聴者に突きつけたものであると同時に、自分自身に問いかけた言葉でもあったのではないだろうか。
今回の番組は大島作品の再放送にとどまらず、作品の今日的意味を問い、今のテレビに対する問題提起を行っているようにも思えた。番組の端々から作り手の熱意と覚悟がうかがえた。
番組のラスト。ブレイキーの演奏が再び響く中、「失われた皇軍」のラストシーンのナレーションが繰り返された。カメラを見つめる少女の目のアップというラストカットは大島作品へのオマージュなのだろう。
本作品を通じて、救済の網からこぼれ落ち、戦後補償から置き去りにされた元日本軍傷痍軍人たちに降りかかった不条理について考えざるをえなかった。日本の不十分な戦後処理によって、同様の悲劇はほかの分野にも数多く発生した。いまだ解決していない問題も少なくない。そのような意味で、「忘れられた皇軍」の問いかけは現代にも生きているのだと思う。
本作は19日にもBS日テレなどで再放送される予定だ。未見の人はぜひご覧になっていただきたい。(相)
Unknown
私が小さかったころには、まだ白装束の傷痍軍人を見かけることがありました。
大島監督のTVドキュメントは、地方にある保管団体等で見る以外は追悼特集の映画上映などでもかかることがありませんから、数十年前に一度見たきりだったかにこの作品を複雑な気持ちで見たことだけが記憶にあったので、今回全編放送されたのはありがたかったです。
吉田茂という大犯罪者、大野蛮人
戦後、なんの補償もなく見捨てられたーー。この悲劇の始まりとも言うべき「4月28日」という日は琉球人にとっても忘れられない日である。吉田茂がサンフランシスコ「平和」条約を結したことで、琉球は日本からアメリカに「渡され」土地や自然をめちゃくちゃにされた。朝鮮人も同様に見捨てられ、あらゆる社会保障や職務から排除された。
それは半世紀以上たった今も本質的には何も変わっていないのだ。
さて、吉田茂「首相」について少し言及しよう。『月刊 現代 2009 1月最終号』の440頁に吉田茂の言葉がある。「他人をうまく助けることができなければ、人間一人前とはいえません」。こいつの頭の中では、「朝鮮人=他人、沖縄県民(琉球人)=日本人、同胞」という図式がなりたっていたに違いない。ところが実際はどうだ。他人=朝鮮人を助けないのはもちろんこと、「同胞」である沖縄県民さえ見捨てたのだ。
このくそオヤジは、他人はもちろんの事、「同胞」=自分さえも助けられていない。要するに、自分では何もできないくそガキと同じという事。吉田茂といえばハットに葉巻という姿が一般的だが、これを改める必要がある。今後はオシメと涎掛けの吉田茂像というものを広めるのがよかろう。自分のこともろくにできないガキが生意気にもハットをかぶったり、葉巻をスパスパ吸ったりするなってんだ。吉田茂という耳カス野郎は在特会の桜井誠と一緒に「賞賛」するのがいいでしょうね。
Unknown
Rawan様、コメントありがとうございます。あのような良質なドキュメンタリーが今後とも地上波でどんどん放映されればいいと思っています。
Unknown
喜屋武カマドゥ様、コメントありがとうございます。吉田茂はそんな発言をしていたのですね。白々しいというか何と言うか…。