東北、震災から3度目の冬
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先週から今週にかけて、出張で宮城と岩手へ行ってきました。1月の東北とあって、真っ白い世界を想像していましたが、思いのほか暖かく、宮城も岩手も今年は全然雪が降らないそうです。震災のあった2011年から去年までは厳しい寒さで雪も多かったのに、と何人かの同胞が話していました。
被災地を訪れたのは約3年ぶり。前回は震災から1ヶ月、電気、水道、ガスのライフラインが復旧した直後でした。
3年前は仙台市内も、言うまでもなく沿岸部も、町のいたるところに瓦礫の山や倒壊した家屋があったり、地盤が割れていたりと、地震や大津波の爪痕が色濃く残っていましたが(それでも、直後に比べたら別世界だと当時聞かされました)、現在はその頃の痕跡はほとんど見つけられませんでした。
仙台市内は建設ラッシュで、中でも南部の長町では大型商業施設や新市立病院のオープンを控え、高層マンションが相次いで建設されています。その一方、一角にはプレハブ仮設住宅団地があり、仙台市内にもいまだ仮設住宅に身を寄せる同胞がいます。
「震災バブル」をもたらしている建設ラッシュの裏側で、住宅を失った被災者のための災害公営住宅の建設は遅々として進んでおらず、沿岸部においては用地確保すらままならない現実。仮設住宅で暮らす同胞たちは、寒くて不便な仮設住宅をいつ出られるのかもわからない、先が全く不透明な現状が続いています。
津波で壊滅的な被害を受けた宮城の石巻や女川、気仙沼、岩手の釜石、大槌、大船渡へも足を伸ばしました。かつて港町だった場所は、雑草が生い茂る広大な更地となり、津波も、ましてやここに人間の暮らしがあったということなど想像すらできない「無」の光景でした。
1週間でたくさんの同胞たちと会い、話を聞いて多くを感じましたが、印象的だったのは、記憶をつなごうとする被災地の同胞らの営みでした。
津波に家を奪われ、現在も仮設住宅に暮らす岩手・釜石の同胞は、自宅のあった場所や避難場所、町の風景などを撮影した写真を見せてくれました。撮影したのは震災からたった10日後のことです。なぜ写真を撮ったのか尋ねると、「記録として残して、次にどこかで震災が起こった時に役に立つように」と話していました。仮設受託団地では自治会長を務め、住民の相談役となって行政とのやりとりにも取り組んでいます。
仙台に住む20代の夫婦は、震災後に産まれた2歳の息子を連れて、妻の実家があった気仙沼へ度々赴いているそうです。「息子にはまだ理解できないかもしれないけど、東北で震災があったこと、多くの同胞たちの温かい支援に助けられたことを、この子にも知ってほしい」と話していました。
イオ3月号では東日本大震災から3年が経った被災地の同胞社会を特集で伝えます。東北の同胞たちの、震災時、そしてその後も続いているたくさんのストーリーを、少しでも伝えられたらと思います。(淑)