1948年の4・24
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(「4・24」40周年を記念し、西神戸朝鮮初級学校の柱につけられたレリーフ)
今日は1948年の4・24教育闘争から66年目を迎える日。
この時期になると、当時を生きた人たちの息づかいに触れたくて、「4・24阪神教育闘争―民族教育を守った人々の記憶」(ブレーンセンター、1988年)を読み返す。同書は、「4・24」40周年を記念し、体験者の聞き書きをまとめたもので、兵庫県に暮らす朝鮮学校の教員や研究者たちの手で作られた。なかには尼崎朝鮮初中の中学生が一世を聞き書きしたものもある。
数々の証言からは、差別に加え、日々の食事にも事欠く貧しさが渦巻くなか、この時代を生きた人たちが、弾圧にどんな思いで立ち向かい、命までも投げ出して、子どもたちの教育の場を守り抜いたのかという姿を一つひとつ描くことができる。
4・24の弾圧では、結婚式を挙げていた新郎新婦を含め、4、5千人が逮捕され、軍事裁判にかけられた。前述の本には、軍事裁判(A級)で15年の重労働の刑を受けた金昌植さんが、獄中で受けた拷問について語っている。
…僕はひどい拷問を受けた。日綿ビルの三階か四階の取調室で、最初はいすに座らされて息が詰まるほど胸を殴ってきた。その次は三角形の角材のようなものを並べた上に正座させられて、太ももを足で踏んだりたたいたりした。足がバラバラになるんじゃないかと思った。
その次は裸にされて、カエルみたいに四つんばいの姿勢にされた。そして拷問専用の靴(先がとがっている)で尾てい骨をけられた。何度もけられると気絶した。気を取り戻しても座ることができず、出血もひどいもんだった。
またあるときには、机の上にあおむけに寝かされ頭を下に垂らされて、鼻から口から水を注ぎ込まれた。はじめはガツガツ飲んだが、しまいには腹が膨れて意識がもうろうとして気絶した。
電気拷問も受けた。両耳たぶに電極をつけられて、電気がピリッと流れた瞬間気を失う。
こんないろいろな拷問の後遺症は今も残っているよ。…(同書から)
なぜ、アメリカや日本は、在日朝鮮人が子どもたちに朝鮮語を教える、という素朴な営みに対して、これほどの憎しみを持ち、押しつぶそうとしたのか―。金さんが生涯かかえた拷問の痛みから、あらためてこの疑問が浮かび上がる。
この本には、4.24後、いち早く私立学校の認可を得た西神戸朝鮮初等学校をはじめ、権力をあげて学校をつぶしにかかった大国・アメリカや日本当局と、現地の同胞たちがどのように闘い、交渉し、民族教育の合法的な権利を築いていったのかという足跡も記されており、そのすべてが、生きた教訓として身に迫ってくる。
いよいよ学校が閉鎖されるという時期に朝連中央委員会が民族教育の自主性を守るために、ぎりぎりの線まで譲歩した4項目の条件は以下だ。(4月16日に芦田首相に伝達)
�教育用語は朝鮮語とする。
�教科書は朝鮮人教材編纂委員会が編纂し、CIE(GHQの民間情報教育局)の検閲を受けたものを使用する。
�学校の経営管理は(朝鮮人で組織する)学校管理組合で行なう
�日本語を正科として採用する。
これすらも認められなかったのだ。
1945年8月15日に日本の植民地支配から解放されたのもつかの間、自分の言葉と文化を学ぶ自由を取り戻した在日朝鮮人は、日本各地に国語講習所を作り上げた。
しかし、自らの学び舎を作り上げた喜びもつかの間、大弾圧を受けることとなる。この弾圧に立ち向かったのが、現在も続く教育権利の闘いの原点となった「4・24教育闘争」だ。
第2次世界大戦中の43年11月、日本の無条件降伏などを求めたカイロ宣言は「朝鮮の人民の奴隷状態に留意し、やがて、朝鮮を自由かつ独立たらしむる」、との方針を定めていたが、朝鮮人民が解放されることはなかった。
1945年8月の日本敗戦と同時に日本を占領したアメリカは、同年11月、「台湾出身の中国人と朝鮮人とは…軍事上の安全が許す限り解放人民として処遇」するが、「必要な場合には敵国民として取り扱うことができる」と指令。教育分野においても、「放置」から「弾圧」へと大きく舵を切る。47年10月、GHQ民間情報教育局は、在日朝鮮人に対する民族教育の基本方針を、「朝鮮人諸学校は、正規の教科の追加科目として朝鮮語を教えることを許されるとの例外を認めるほかは、日本(文部省)のすべての指令に従わしめるよう、日本政府に指令する」と定めた。
これを受け、日本政府は、翌48年はじめから朝鮮人の子どもは公立学校に行くよう通知し、その一方で校舎を借りていた朝鮮学校に明け渡しを求め始めた。そして、新学期が迫る中、各都道府県は閉鎖命令を出し始め、武装警官を動員して「閉鎖」を強行。これに対し、日本各地では民族教育を守るための闘いが繰り広げられた。兵庫では、3月31日に県知事と神戸市長が、灘初等学院などの立ち退きを命令。4月10日には封鎖命令を出し、ついに23日には、灘と東神戸の朝連初等学院を封鎖する強硬策に出るや、怒りに満ちた同胞や日本市民が24日に県庁前に集結した。そして、この日、兵庫では、朝鮮人代表と兵庫県知事との交渉が実現し、「学校閉鎖令」が撤回された―――。
しかし、この日の夜にアメリカ占領軍は、戦後初めてで唯一の「非常事態宣言」を神戸を中心に発令。カービン銃を持った米兵と、武装した日本の警官による一大検挙―朝鮮人狩りが行われた。
その最大の犠牲者が、大阪で射殺された16歳の金太一少年であったし、病身のまま投獄された、朝連兵庫県本部の朴柱範委員長だった。
朴委員長は1927年に渡日。30年に武庫郡本山村森市場近くに朝鮮人部落をつくり、飯場を開いた。35年に阪神消費組合第5回大会副議長を務めるなど、在日朝鮮人の生活必需品の購入販売や子どもたちのための夜学を開設するなど、同胞のために奔走し、人望が厚かったという(「朝鮮学校のある風景・20号」から)。
獄中死を恐れた当局は、ひん死の朴委員長を49年11月25日午後8時に仮釈放、朴委員長は4時間後の午前0時に他界した。11月30日に西神戸朝鮮小学校で行われた葬儀には1万5000人が集まったという。朴さんを悼む人々の群れは、日本政府、GHQへの怒りの大きさを表していたと思う。
朴柱範委員長。「4・24阪神教育闘争―民族教育を守った人々の記憶」から
朴先生の遺骨は49年暮れに妻と次女が持ち帰り、現在、朴先生の墓は、慶尚北道・義城にある。
私の故郷でもある義城。
4.24の日は、今日に続く民族教育の営みを守り抜いた一世たちを心に刻む日だ。(瑛)
一体誰がこんなにひどい事を
48年4月24日に、このような事が起きたということを知り、驚きました。拷問をしたのは、日本の警察官なのですか?それとも米軍兵なのですか?
「誰」がやったか
>拷問をしたのは、日本の警察官なのですか?それとも米軍兵なのですか?
特に本事件について当時の記録や証言を読んだわけではありませんが、拷問に直接手を下したのはおそらく米兵ではなく日本人でしょう。
GHQは占領軍として絶大な権力を振るいはしましたが、日本政府の統治機構を基本的に生かしたまま「間接統治」するにとどまりましたので、行政における直接の担い手は今まで通り日本人でした。司法・警察行政においても事は同様です。
1948年4月当時は、すでに特高警察とその要員は「人権抑圧装置の一つ」として解体・追放され存在しませんでしたが――
1.特高の解体直後、その「政治警察」としての役割を密かに引き継ぐ目的で内務省は警保局に「公安課」(現在の「公安警察」の源流)を新たに設置していたこと、
2.この事件が「戦後日本で唯一の非常事態宣言」発令下で起こった(宣言発令下ではGHQの当該レベルの憲兵司令部が、管轄地域の日本警察を直接指揮下における)ものであること、
3.当時のGHQ内部で、日本の民主化を第一と考える部局(GS=幕僚部民政局)と対共産主義諜報活動を重視した部局(G2=参謀部第2部)との間で戦後日本のあり方について鋭い対立があり、G2が特高や憲兵隊といった旧治安機関の要員だった日本人を諜報員として雇い入れていたこと
――以上を考え合わせると、特高上がりのGHQ(G2)日本人要員や兵庫県警公安課の刑事が、GHQ当局の取り調べに立ち会い、このような拷問を行ったとしても不思議ではありませんね。
さらに言うならば、当時のアメリカは朝鮮と朝鮮人についてひじょうに情報不足=無知だったとする一部研究者の指摘もあり、取り調べを日本人にアウトソースする必要があったという可能性も高いでしょう。
蛇足ながら、本記事にある拷問の描写の中でも、「水拷問」は日本の特高・憲兵がしばしば用いた手法としてよく知られているものです。
追記というか修正というか
度々恐縮です。
>兵庫県警公安課の刑事
と先に書いていますが、地方警察で当時「公安課」の部署名が使われていたかどうかは私にもわかりません(筆がつい滑りました。苦笑)。
現在と同様に「警備部」的な名称だったかもしれませんが、私の情報収集力ではこれが精一杯です。大変失礼しました。