「サンペン」誕生の歴史をたどる(下)
広告
先週のエントリ「『サンペン』誕生の歴史をたどる」の続き。
サンペンマークが誕生したのは1948年、デザインを考案したのは東京朝鮮中高級学校(当時は東京朝鮮中学校)の第1期生である朴文侠さん(当時16歳)と同校美術教員だった朴周烈さん(同20歳)の2人。学校側の新デザイン公募の呼びかけに応じて、仲の良かった2人による共同作業が始まった―。というところまでが前回のお話。
朴文侠さんいわく、デザインするにあたって重視したポイントは3つあったという。▼在日朝鮮人学生らしさを表現すること、▼図柄としてのバランスがいいこと、▼安定性があること、だ。そうしてできあがったのが、3つのペン(勤勉)とハンマー(勤労)を組み合わせた、あの三角形のマークだ。ちなみに、当初2人が提出した図案は現在のマークと細部でいくつか違いがあったという。採用された原図案はいくつか修正がほどこされ、こんにち目にするあのマークになった。サンペンの3には「三千里錦繍江山、三千万朝鮮民族、三角形などさまざまな意味を込めた」という。
東京朝鮮中高級学校の沿革史によると、48年に校章として採用されたサンペンは、男子学生がかぶる帽子のマークと学生服につけるバッジになった。その後、サンペンは日本各地に創立される朝鮮中・高級学校にも広まり、現在にいたる。ちなみに、中級部と高級部ではマークのハンマー部分の色が違う。
サンペンが刻まれた制服のボタンやバッジは長らく朝高の象徴だった。現在も中・高級学校の男女制服やジャージ、カバンなどに刺繍やプリントされている。先輩から受け継がれたバッジをつける生徒たちも少数ながらいるという。ちなみに、その昔、日本の学生たちの間でもサンペンバッジが売り買いされていた、という話はよく聞く。なぜかというと、そのバッジをつけていれば……(これ以上はおおっぴらに書くような内容ではないので自粛)。
ちなみに、考案者の朴文侠さんは現在83歳で健在だ。
朴さんを取材しに水戸まで足を運んだ際、この話題と関連して興味深い話を地元の朝鮮学校関係者から聞いた。1949年まで存在した朝聯茨城高等学院(土浦市)には3ペンならぬ2ペンマークのバッジがあったという。当時は日本全国の朝鮮学校に共通する校章の規格がなかったため、同校のある教員が考案したものだとか。下の写真がそのニペンマーク。
あまりカッコよくない…(あくまで私個人の感想)。
私も中級部時代(当時は詰襟の学生服)に使っていたバッジを卒業後も取っておいた記憶があるので、先日、実家で探してみたのだが、残念ながらなかった。どこかに紛れ込んでいるのか、それとも自分の記憶違いか…。(相)
?
「サンペン物語」、おもしろかった!!!!!!!!うちのアボジもかかわっていたので…。ところで、サンペン前の「ホランイ」バッチの件は、書かれた以上のことは分からなかったのでしょうか?写真は?教えてください。
草創期にかかわった教師の中では「日本帝国主義の楔から解き放された朝鮮民族の喜びと祖国建設に邁進する決心を、朝鮮を象徴するホランイが檻を破ろうとする」と解釈する人が多かったようですが。
Unknown
金日宇さま、質問への返信が遅れてしまい、申し訳ありません!!
「ホランイ」バッジの件はブログに書いた以上のことは、取材の時点ではわかりませんでした。写真も探してみたのですが、なかったです…。
「草創期にかかわった教師の中では『日本帝国主義の楔から解き放された朝鮮民族の喜びと祖国建設に邁進する決心を、朝鮮を象徴するホランイが檻を破ろうとする』と解釈する人が多かったようですが」とのことですが、お話をうかがった朴文侠さんもそのようなことを仰っていました。解釈としては上のような意見が一般的だったのですが、当時はさまざまな考えを持つ人々がいて、あのデザインについても、私がブログで書いたような見方をする人たちがいたということです。結果的にそちらの方の声が大きくなり、学校側が変更を決断したということでしょうか…。
とりあえずは以上です。今後も時間を見つけて、この件は写真も含めて調べてみようと思います。貴重なご指摘ありがとうございました。
三ペン大好き
ちなみに茨城の二ペンは慶應義塾の校章だったと思います