「日本のなかの朝鮮人」
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手元に古い雑誌がある。
韓日条約が締結された1965年に発刊された、月刊『太陽』12月号(平凡社)だ。
特集タイトルは「日本のなかの朝鮮人」。
「いちばん近い外国,外国人 半島人,朝鮮の人,第三国人などと私は一度も呼ばない」と題した中野重治の寄稿にはじまり、梶村秀樹、小田実といった朝鮮問題の著名人らが、朝鮮半島と日本の歴史について誌面で論じている。
編集部によるルポルタージュでは、帰国船の出る新潟港、強制連行の九州炭坑地帯、原爆被爆の広島、東京・大村・対馬・大阪での朝鮮人の生を、丹念に取材し、写真とともに掲載している。
帰国者たちの別離の表情に映る悲喜こもごも、原爆部落のオモニ学校で朝鮮語を朗読する女性、被爆により全身ケロイドで苦しむ老女、朝鮮民主主義人民共和国創建17周年を祝い華やかに舞う在日朝鮮中央芸術団の舞踊手たち、キャンパスを闊歩する朝鮮大学校の学生…。
50ページにわたる重厚な特集企画から、韓日条約と植民地支配の歴史忘却に警鐘を鳴らし、歴史の記憶から朝鮮半島と日本の関係を捉え直そうと試みる、編集者の気概を感じる。
それから50年が経った2015年。朝鮮半島、在日朝鮮人を取り巻く日本の現住所はどうだろう。
振り返れば、1940年代後半の4.24教育闘争にはじまり、60年代後半の外国人学校法案反対闘争、補助金獲得運動、大学受験資格問題など、在日朝鮮人の法的地位、民族教育の処遇は、不十分ながら少しずつ改善されてきた。言うまでもなく、すべて当事者らの闘いによるものだ。先人たちのその努力と労苦は、百万言を尽くしても言い足りないだろう。
しかし、なおも在日朝鮮人の人権と尊厳は踏みにじられたままである。朝鮮学校に対する「無償化」排除、補助金カットなどの露骨な朝鮮学校弾圧もさることながら、特別永住資格の見直しを検討する政治家の動きまで噴出している昨今だ。
昨年末に訪れた広島、駅前広場で開かれていた無料生活相談会で、広島朝鮮初中高級学校のオモニたちが、「上を向いて歩こう」を歌いながら、集まった相談者たちにこのように呼びかけていた。
「私たちはいつも歌をうたいながら、毎日明るく前向きに暮らしています。皆さんもどうぞご一緒に!」
オモニたちのひたむきな歌声に胸打たれたと同時に、なぜ、日本によりこれほどまでに苦しめられている在日朝鮮人の側から声を上げ続けなければいけないのか、依然として変わらない歪な構図に暗澹たる気持ちにもなった。
『太陽』12月号特集の巻頭言には、「在日朝鮮人」という呼び名を用いた理由について次のように書かれてある。
「一般には『在日韓国人』という言葉も使用されているのですが,本誌がこれを用いなかったのは,なにかの政治的国家的取捨をしたからではありません。反対に,国境や政治思想の区別をこえて,人間と人間のむすびつき,民族と民族のかかわりを考えてみたかったからであります。おそらく日本のなかの朝鮮人の問題を正しく解くことは,アジアのなかの日本を正しく解くための重要な鍵となるのではないでしょうか」
植民地支配からの解放70年を迎える2015年。真の解放前夜、統一前夜を手繰り寄せる光を見出すべく、今一度歴史に立ち返り、在日朝鮮人の存在について深く考えてみたい。(淑)