東京朝鮮第6幼初級学校・新校舎が竣工
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東京朝鮮第6幼初級学校(東京都大田区)の新校舎竣工式が4月29日に行われ、関東地方や地域の同胞たち、大田、品川区の区議会議員ら約600人がお祝いにかけつけてくれました。
新校舎建設の大きなきっかけは、2011年3月の東日本大震災。首都直下型地震に備え、1961年に建設された(71年に増築)校舎の建て替えは待ったなしの課題でした。
過去、西南地域には3つの学校があったものの、2校が門を閉じ、現在は東京・西南地域の6の区から園児・児童たちが通っています。
地域の同胞たちは新校舎を建てるため、11年8月に建設準備委員会を発足、13年に2月に建設委員会(朴廣明/洪竜守共同委員長)を立ち上げ、学校所在地の大田、城南(品川、目黒、港区)、渋世(渋谷・世田谷区)の3地域で建設資金を集めてきました。建設委員会は、3地域の40、50、60代の同胞が中心となりました。
建設委員会の朴廣明共同委員長(66)は、「学校をどの場所に建てるべきか。どうすれば保護者に負担なく、運営できるのか。建設委員の中でも葛藤や意見のぶつかり合いもあった。結論が出ないなか、危険だと日本学校へ転学させる保護者もいた。一日も早く新校舎を建てなければならなかった」と振り返っていました。
予算が限られるため、校舎を半分解体しながらの建設。旧校舎お別れ夜会に1000人を越える同胞、日本市民を集め、引っ越し作業も地域をあげて取り組みました。学校を失った無念や経験をぶつけながら、この地域の「民族教育の未来」を探る日々…。
27歳の長男、25歳の次男を育てる過程で学校の統廃合を経験してきた朴さん。
「3地域の力で、新校舎建設という大きな仕事をやり遂げることができた。力を合わせなければ学校を失う―。この危機感をもって進んでいかねば」。竣工式の前に朴さんがまっすぐな表情で語っていた言葉が忘れられません。
2階建ての校舎、人工芝が敷きつめられた運動場、吹き抜けの講堂兼体育館、冷暖房が完備された教室、幼稚班の床暖房や爽やかなブルーを取り入れた開放感のあるトイレ…。
トイレが新しくなって、本校ではおもらしをする園児がいなくなったそうです。
設計を担当した林誠澤一級建築士(39)は、東京朝鮮第8初級学校の出身。
「今はなき第8ハッキョの思い出といえばトンポが集まる夜会が目に焼きついている。自分が育ったかけがえのないコミュニティを守りたい。地域のさまざまな人たちで活気づき、子どもたちがのびのび学べるような空間にしたかった」と設計への思いを語っていました。
東京第6初級には、第7、第8の卒業生や保護者の思いもたくさん詰まっているのです。
大田地域は8000万円(のちに1億円に変更)を目標に募金運動を開始。基金の第1号は年金生活をする同胞高齢者でした。竣工式で事業報告をした洪竜守・共同委員長(46)は、大田、城南の両地域で各1億円を集め、渋世も合流し、目標額を達成したことを高らかに宣言していました。
亡き恩師や匿名の同胞から基金が寄せられたことを涙ながらに語った洪委員長は、「1世のオルシンたちは何ひとつ財産を持たず、明日、食べるものを欠く中でも、子どもたちのために学校を建てた。まさに1世の血と汗が染みたハッキョ。1世には及ばないが、2世、3世の力を集め、やり遂げることができた。協力してくれたすべての同胞に感謝したい」と万感の思いを伝えていました。
この日、校庭の一角には柿の木が移植されました。
東京第6初級のはじまりは大田区の沼部で聖林学院という名の国語講習所が開かれたことです。
それから、約1ヵ月後の10月10日には東調布第一小学校の一間、池上の南之院を利用した国語講習所が開校し、この日が創立記念日になっています。その後、南之院から池上の同胞宅に講習所の場所を移したのですが、柿の木は当時からこの講習所に植えられていた木なのです。
2012年の西東京朝鮮第2初級学校、13年の京都朝鮮初級学校、14年の東京朝鮮第1初中級学校に続く、新校舎の建設。同胞の底力はすばらしいと思えた一日でした。
新校舎竣工というスタート地点に立ったこれからが本番。
私も保護者の一人として気を引き締めています。(瑛)
※写真提供=朝鮮新報