自分は何者か? 統一とは何か?
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今日は月刊イオ8月号の締め切りの日となります。今年の8月は朝鮮が日本の植民地から解放されて70年になります。解放はしかし、分断の始まりでもありました。私が子どもの頃の記憶では、8月15日は純粋に「解放の日」としてお祝いしていました。大会もやり、同胞たちが川辺などに集まって焼肉を食べ踊っていた、そんな感じでした。
いつからか、純粋に祝うことがなく、分断の始まりという部分が強調されてきたように思います。
8月号は統一問題を特集にしました。情勢分析というのではなく、人々の統一に対する思いを集めたという感じです。
一昨日の(理)さんと同じように、子どもの頃の統一に関する思い出を書こうと思ったのですが、まったくありません。72年の7.4南北共同声明は、新聞の1面で報道されていたのは覚えているし、両親がそのことで何か話していたのも覚えています。しかし、それだけで、私自身が共同声明発表に心を躍らせたとか、そういうことはまったくありませんでした。
当時の私と今の私と、大きな意味で、置かれている立場は同じです。ですから、一人の在日朝鮮人として、朝鮮半島の統一が持つ意味も大きくは同じでしょう。しかし、昔と今とでは統一に対する思いはまったく違う。それは、当時の私が何も知らなかったからにほかなりません。自分がどのような経緯で日本で生まれ育ったのか、在日朝鮮人は日本でどのような状況に置かれているかなどなど。自分が朝鮮人であることは知っていましたが、祖国が分断されているということもほとんど認識していなかったし、そもそも祖国なんだという思いもなかったと言えます。
解放からも70年、在日朝鮮人の歴史は100年にもなります。4世や5世が生まれています。祖父母の誰かが朝鮮人だった、両親のどちらかが朝鮮人という人や、日本国籍をもって暮らす人はどれくらいの数になるかわかりません。中には朝鮮半島に何らかの形でルーツをもちながら、そういうことをまったく知らずに生まれて死んでいく人もいることでしょう。考えは人それぞれでしょうが、私は自分のルーツをまったく知らずにいるというのは不幸なことだと思います。なぜなら、昔の私のように、そういう状況に人為的にさせられているからであり、今も分断が続き日本が過去を清算せずにいて問題が現在進行形だからです。
統一とは自分にとって何なのか、月刊イオ8月号をひとつのきっかけに、多くの人が考えていただければうれしいです。(k)