いつもと違うことがしたくて
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お寺で一泊してきた。いわゆる宿坊というやつである。思い立ったのはシルバーウィークに入る少し前で、せっかくの連休なのだから何か…何かいつもと違うことをしようと考えた末に修行とかいいかもなあと思い、「修行 体験 関東」と検索してその存在を知った。
関東には宿坊体験ができるお寺が結構ある。その中で値段が安く、かつ比較的アクセスのいいところを選んだ。最寄り駅からバスに乗って15分も走ると、あっという間に自然の中。川をいくつか越えて、乗客もほぼいなくなり、ザ・山奥!という場所でバスを降りた。
お寺につくと、駄菓子屋をしていそうな佇まいの初老の女性が出迎えてくれた。わざわざ一度表に出されて、下の文章を割と大きな声で読むよう促される。恥ずかしさをこらえて朗読すると、「はい」と気のない返事で先に中へ入っていった。読む意味…。
さて、以下が宿坊の一泊二日スケジュール。
【1日目】16:30までに入山
17:00~座禅
18:00~夕食
19:30~風呂
21:00~就寝
【2日目】
5:30 起床
6:00~お勤め
6:30~座禅
7:10~住職による法話
8:00~朝食
8:30~掃除 ※希望者は掃除後、写経
10:00 下山
健康的である。
私は「入山」よりも早く来てしまったため、周辺を一時間ほど散歩。紅葉の季節はまだだったが、葉っぱが陽の光に透けて金色に見えるのがとても綺麗だった。
散歩から帰ってきて少しすると、3人の女性がやってきた。見たところ友人同士ではなく、それぞれ一人で来たようだ。(ああ、やっぱり同じような考えする人もいるんだ)となんだか安心。
お茶を飲みながら自己紹介をする。22歳、27歳、32歳、自分が25歳となかなかバランスがいい。宿坊に来た動機は程度の差はあれ、ざっくり言うとみな「自分を見つめなおしたい」というものだった。
話の途中でおもむろに住職が登場。言われるがままに本堂の方へ移動しあぐらをかいて、いつの間にか座禅がスタートしていた。もっと心の準備とか、ウォーミングアップみたいなものがあると思っていた。
庭の緑が揺れている。池の音と、呼吸だけが聞こえる。よく「無になる」と言うが、それはいまいち分からなかった。最初は色々なことが頭に浮かんだし、それに飽きると自然と頭の中が静かになった。
ただ、途中から慣れないあぐらに足、特にふくらはぎが痛くてたまらず、せっかく静かになった頭の中は、「痛い」という言葉と、足をずらすか我慢するかの葛藤でいっぱいになった。最後まで耐えることができたのは、住職がテレビなどでよく見る「肩パシン」をしてくれたことと、(ここで崩したらせっかく7000円も払ってここまで来た意味がない)というもったいない精神のおかげだと思う。
どうにか終えて時計を見るとなんと40分も経過していた。普段の生活で、40分も意識的に喋らず、姿勢を正し、自分の頭の中を意識することなんて(限界まで足の痺れを我慢することも)ほとんどない。これだけでもなかなか面白かったと言えるかなと思うと同時に、明日も同じ足の痛みが待っていると思うと小さな憂鬱も覚えた。
そしてお待ちかねの夕食。机の前に正座をして「いただきます」を言う。質素というか、つつましい感じの献立だ。ご飯に味噌汁、漬物、麩を揚げたもの、小さなごま豆腐、かぼちゃの煮つけに小豆をかけたもの。しかも住職は「食事中、一言も喋らないように」と言う。もらった箸袋には5つの教えが書いてある。食べることのありがたみを感じるとか、欲を抑えるとか、色んな意味があるらしい。座禅だけでなく、食事、睡眠も、生きることすべてが修行なのだそう。
味噌汁をすする「ずずっ」とか、漬物を食べる「しゃくしゃく」という音が気になる。しかし慣れるとなんだか新鮮な気持ちだった。むしろ味が染み込んでくるような気がして美味しかった。最後は白飯が入っていた茶碗にお湯を少し注いで、一切れだけ残しておいた漬物でご飯粒を綺麗にこそげ落としすべて飲み干す。ああ精進している気分。
お風呂に入り、きちんと21時に消灯。座禅の時のようにゆっくりと色んなことを考えていたらいつの間にか眠っていた。翌朝は5時半前にすっきり目が覚めた。
顔を洗って本堂へ。座禅をすると、最初から頭がクリアになっていることに少し驚いた。やっぱり足の痛みは襲ってきたものの昨日ほどではなく、「肩パシン」をもらって無事終了。
朝食も、みなすんなりと席について無言で食べ始めた。人間の順応力はすごい。
味のないお粥に漬物、なすのおひたし、えんどうのなにか、黒ごまと塩昆布が少々。ふと、こういう生活を、例えば1週間だけでも毎日続けてみたらどうなるのかなと興味がわいた。
宿坊の最後は写経。足の痺れと格闘しながら二百数十文字のお経を半紙に写す。
もし、「これをやる自分なりの意義をのべよ」と誰かに聞かれても、うまく言葉で言い表すことはできないだろう。ただなんとなく、実生活には直接的になんの利にもならないことを黙々とするのもたまにはいいことのように感じられた。
バスと電車で自宅へ。街へ近づくにつれ、お寺でしたことの現実感がどんどん薄れていった。でも約1週間が過ぎた今も振り返ると面白いし、結構いい経験をしたと思っている。(理)