民族名と通名
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イオ2月号の連載「暮らしはいま」では、「民族名、使いますか?」と題して通名と民族名に関して取材している。
上下連載なので、イオ3月号に向けて記者たちが取材をしている最中。
この記事を読みながら、自分の場合に思いを巡らせてみた。
私は昔から通名を使ったことがない。
民族名を日本語読みにして、保育園にも通っていた。
祖父は商工人だったが、同じく民族名を日本語読みにして商売をしていたし、父や母も同じである。
日本の方の取引先や、銀行にもその名前で商売をして、信頼を得ていったのを見ているので、民族名を使うのが当たり前だと思っていた。
通名というものがあることに気付いたのが小学校の頃。
授業で教えられてなのか、同級生の中で話題に上ったのどちらか忘れてしまったが、通名という存在に気付き、何気なく父に通名は何かを聞いてみた。
通名は「木村」だと聞かされたが、いままで使ったことも聞いたこともなかったので、あってないようなものだ。
ある日、園のママ友である韓国の方から、名字を変えないことによって色々な面で就職など不利なことはあったか、通名に変えたらよかったと思ったことないですか、という相談を受けた。
自分の場合は、民族名の名字を使うのが当たり前だったし、学生の頃すこーし就職活動をしたこともあったが、デザインや美術関係をするうえでは、そこから話が広がりむしろ面白がってくれたり、日本語とハングル両方の言葉を理解できることを重宝してくれたり不利になったことは一度もなかった。(ただ、家探しが大変だったが。。。)
なので、その経験を話し、日本では偏見や差別もあるけれど、二言語使えることは強みだとも思うので、私は名字変えないと思います、と話した。
個人的には、生前祖父の若い頃の植民地朝鮮時代の話しをたくさん聞いていたこともあり、民族名を使って日本で暮らすことの大切さ、意義などを個人的に重要視している部分もあると思う。
それでなくとも、何十年間もこの名前で暮らしてきて自分がいるので、「木村」という通名を使うと、あってないようなものだったので、自分が自分じゃなく居心地の悪さや気持ち悪さまで感じてしまう。
子どもも園では通称名を使わず民族名で通っているが、物珍しい名前のせいか、すぐに覚えてもらえるし、上のクラスからも可愛がられているよう。
最近では、「なまえは○○○です!」と、ちゃんと話しているのをみると、自分の名前に自信を持って言えるのはいいな、と思う。
誤解なきよう最後に言うのであれば、通名か民族名か、それは個々人の価値観や必要性にもよると思うので、特に私個人としては別段、通名を使う人を非難はしないし、気にはならない。
私個人的には、自分の名前と祖父たちから受け継いだこの苗字も気に入っているので、この名前で一生を過ごしていきたいと思う。(愛)