下関・大坪トンネを歩く
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イオ7月号では、朝鮮の歴史を感じられるスポットや同胞が多く住む地域を編集部記者が散策する、「さんぽ」企画が掲載される。
私が担当したのは山口県下関市。JR下関駅から徒歩圏内にあるいくつかのエリアを回った。
下関は韓国の釜山広域市と1976年に姉妹都市の提携を結んでいて、駅からすぐの下関港国際ターミナルからは両都市間の夜行便が毎日運航している。
釜山との直線距離で220kmほどと近く、戦前は関釜連絡船が運航していたことで有名だ。当時、日本と大陸をつなぐ大動脈の役割を担った連絡船が発着した下関は、国を奪われ、また強制連行されて日本へやってきた多くの朝鮮人が降り立った場所でもある。
さらに解放後は帰国を急ぐ朝鮮人が下関に殺到。帰国の順番を待つ人々が一時的にこの地域に留まった。いつしか駅前には「朝鮮市場」と呼ばれる闇市が必然的に出現し、警察によって繰り返し撤去されるも、なくなることはなかった。グリーンモールと呼ばれる駅前の通りを歩くと、今も在日同胞のお店が集中していることが分かる。
「さんぽ」の取材ではそれらと関連した場所を訪ねたが、今日のブログではその中のひとつ、旧東大坪町のトンポトンネを紹介しようと思う。
ここは解放前から多くの同胞が住んでいた同胞集住地域。かつては市営の火葬場や刑務所もあり、人が住むような場所ではなかったそうだ。各家庭にちゃんとしたトイレもなく脇道などで用をたしたため、「トンクル(糞窟)トンネ」と呼ばれていた。
場所は、駅前のグリーンモールをさらに北に向かった、現在の東神田町あたり。山口朝鮮初中級学校もこの中にある。
全体が小高い丘となっているのだが、この日は学校を訪ねた後に裏門からトンネへ入り、小道を通りながらゆっくり下って行くことにした。
古い家々が密集して立ち並び、細い道が続く。途中に見える光明寺の横の階段を上ると朝鮮式の梵鐘があり、そこからは地域一帯が見下ろせる。左下には山口初中が、右の奥には海峡ゆめタワーや、海を隔てた九州の山が見える。
道なりに進み階段を下ると、右手に「神田公園」がある。昔、火葬場だった場所だ。
神田公園入り口から真っ直ぐ伸びる、ゆるい坂道を行く。車1台が通れるくらいの幅で、この地域の中心となる通りだ。右手の奥には、戦前、朝鮮人の飯場だったとされる建物も見える。
今も残る乾物屋の近くでは、小さな畑でケンニプ(エゴマの葉)やニンニクを育てる1世ハルモニと出会った。私を案内してくれた同胞が200円分のケンニプを購入しようとすると、良く育ったものを手際よく見分けて一束どっさり手渡してくれた。
最終地点には、かつて刑務所だった場所に下関市民センターが建っている。石垣で出来た敷地の壁は昔と変わらないそうだ。
市民センター入り口を背に真っ直ぐ進み、突き当たり右へ。数分歩いて、緑のアーケードが目印のグリーンモールを再び通り、駅へ向かう。
今回、大坪トンネを散策するのに役立ったのが、この地図。
一昨年、イオの連載「朝鮮学校百物語」で山口初中の草創期について掲載したが、その取材で下関を訪れた際にある同胞が描いてくれた。学校が出来た当時の周辺の地図を、記憶している限り書き起こしたものだ。
昔はトンネも人が多かったそうだが、1世同胞のほとんどが亡くなり、活気は大分薄れた。しかし、トンネの面影は今も残っている。
この地図を片手に歩くと、在日1世、2世がこの地に築いてきた生活のようすが浮かび上がってくるようだった。(S)
Unknown
大坪地区!! 懐かしい響きです。25~30年ほど前に知人が大坪通信というのを出していまして、私も読者のひとりでした。残念ながら現地を訪れることができないまま通信はやめられました。保存してたおもうのですが未だに探しだせません。今回の記事は写真も多く良かったです。