「タクシー運転手」を観て考えたこと
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先日、公開中の韓国映画『タクシー運転手-約束は海を越えて』を劇場で鑑賞した。
1980年5月に韓国の光州で起こった光州民主化闘争(光州事件)を世界に伝えたドイツ人記者と、彼を事件の現場まで送り届けたタクシー運転手の実話をベースに描いた本作は2017年に韓国で1200万人を動員する大ヒットを記録した。日本でも4月下旬から東京、大阪など各地の劇場で公開中だ。
本作は公開直後から私の周辺でもSNSなどを通じて話題となっていた。ストーリーに加えて、韓国を代表する名優ソン・ガンホが主演となれば面白くないはずはない。実際に鑑賞してみた感想は、前評判にたがわぬ面白さだった。
本作鑑賞後、政治的な出来事をめぐる表現(とくに文学や映画などのフィクション)はいかにして可能なのか、また、どうあるべきなのか、といったようなことを、(ちゃんとした答えなど出せるわけないのに)なんとなく考えている。
映画を見終わった後、無性に読み返したくなった本があり、職場の書架から取り出した。韓国の作家・韓江(ハン・ガン)の『少年が来る』(井手俊作訳、クオン、2016)だ(原書は、한강 《소년이 온다》【창비、2014】)。
本書は『菜食主義者』で韓国人初の「マン・ブッカー賞」を受賞した著者が自身の故郷でもある光州で起きた光州事件を題材にした小説で、全6章+エピローグからなる。それぞれの章は「5.18」に関わったさまざまな立場の人々のエピソードで構成されている。
読後感はずっしりと重い。ジャンルを超えて、近年読んだ本の中でもトップクラスで衝撃を受けた作品かもしれない。
本作が胸に迫ってくるのは、光州での出来事という枠を超えた、国家暴力の被害者の物語につながる普遍性を持っているからではないかと考えている。朝鮮語が読める人はぜひ原書で味わってもらいたい。(相)