自分にはウソをつけない
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安倍首相の森友学園、加計学園問題は、なかなか終わりそうにないが、最近では大学アメフト部の反則タックル問題がモリカケ問題を消し去るかのように世間をにぎわせている。昨年の相撲の暴行問題もそうだが、アメフトのような問題、本当に日本のテレビは好きだ。こんなに長く伝えなくても良いのにと、あきれてしまう。
これらの問題、いつどこで、誰に会って、どう発言したのか、残っている記録やいろんな人たちの証言によって事実を追及することが大切だ。
しかし、国会などで元首相秘書官など関係者が参考人として発言しても真実を語っているかどうかはわからない。アメフト部の監督やコーチの発言を聞いていても本当のことを言っているのかどうか、疑ってしまう。
子どもを育てるとわかることだが、やらなければならない決まりごとを、やらない、できないことが多い。例えば歯磨き。まだ幼い頃、した形跡がないので「歯磨きしたのか?」と聞くと、面倒なのか、「したよ」と言うことがある。ウソなのかと疑っても、あくまでも「した」と言われると、そうかと引き下がる。でも、したかしていないかは、本人が一番わかっている。
会ったのか会っていないのか、こう発言したのかしなかったのか、確かに忘れることもあるだろう。また、どれだけ悪意があって、例えば反則を指示したのかどうか、本当のところは他人には証明することはできない。しかし、権力構造の中で特定の人間に特別に便宜が与えられたのかどうか、自分がどれだけの気持ちで選手に指示を出したのかどうかなど、自分自身が一番わかっていることだ。
自分にはウソをつけない。
日常の生活の中で、良心の呵責を感じることは少なくない。企業の悪事が内部の告発によって表に出ることがあるが、自分にウソをつくことに耐えられなくなり、公表に踏み切るのだろう。アメフトの当事者の選手が記者会見したのも良心の呵責、自分にこれ以上ウソをつきたくないという気持ちがあったからだと思う。
今も昔も、良心の呵責というものと無縁の人間がたくさんいる。ウソをつくこと、悪事をはたらくことに、何の良心の呵責も感じない人間がいかに多いことか。
朝鮮問題に関しては特に良心の呵責は無くなって久しい。アメフト問題で大学をあれだけ批判するマスコミも、「北朝鮮問題」で何の根拠もないデタラメな報道、悪意に満ちた報道を垂れ流している。明らかな差別であるにもかかわらず、朝鮮高校だけを高校無償化制度から除外しつづける。それを許している社会がある。そもそも、自分が間違ったことをしているという認識自体がないのではないか。そうすると良心の呵責を感じることもあるまい。
高校無償化裁判でひどい判決を出した、広島、東京、愛知の裁判官に聞いてみたい。「どのような理由であのような判決を出したのか?」「良心の呵責はあるのか?」と。なぜあのような判決を出したのか、自分自身が一番知っているはずだ。(k)