資料集「朝鮮人犠牲者追悼碑~歴史の真実を深く記憶に」が発刊
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資料集「朝鮮人犠牲者追悼碑 歴史の真実を深く記憶に」が5月下旬、朝鮮人強制連行真相調査団から出版された。
朝鮮人強制連行の真相調査、被害者への謝罪と補償は本来、日本政府によってなされるべきだが、手付かずのままだ。各地の追悼碑をまとめて紹介したのは本書が初めて。同調査団は、本書の出版を通じて「過去の清算につなげたい」と普及に取り組んでいる。
日本各地の追悼碑が一冊に
資料集は、全254ページ。日本の35都道府県下にある160の朝鮮人犠牲者追悼碑が写真、所在地、建立地、建立日、大きさ、碑文、解説とともに収められている。
日本の朝鮮植民地支配時、在日朝鮮人は関東大震災時の流言蜚語によって数千人が虐殺され、日本の国策として、610万人以上が日本や朝鮮各地の炭鉱や鉱山、軍需工場で過酷な労働を強いられた。資料集には、関東大震災朝鮮人虐殺犠牲者の碑、強制連行、強制労働犠牲者の碑、日本軍性奴隷被害者の碑、長崎、広島の原爆犠牲者の碑をはじめ、朝鮮人関連の追悼碑が都道府県別に整理されている。日本政府による加害の事実や犠牲者名が記されたものもあるが、まったく言及されてないケースも多い。建立の主体も同胞や日本市民、自治体首長、行政、企業が建てた「慰霊碑」「慰霊塔」「供養塔」「記念碑」「祈念碑」「墓」などさまざまだ。
一番古い碑は1908年に熊本で建てられた。鹿児島本線工事での犠牲者を追悼するものだ。
72年以降に各地に朝鮮人強制連行真相調査団が結成されてからは、調査が活発になったことを受け、追悼碑が多く建立された。この時期の特徴として、①建立主体が日本の市民や団体に変わり、②碑文に「強制連行」「強制労働」の文言が刻まれ、③日本軍性奴隷被害者や原爆犠牲者、沖縄戦で亡くなった軍人・軍属の碑が建立されるようになった―と分析するのは金哲秀・朝鮮人側事務局次長。資料集の巻末に解説を寄せている。
しかし、2012年以降、各地で追悼碑や説明板の撤去や書き換えなど、歴史修正主義者による追悼碑への攻撃が始まったことで、朝鮮人強制連行真相調査は大きな試練に直面した。そこで、長年の調査の結晶とも言える追悼碑を記録することを調査団の河秀光事務局長(71)が発案。調査団メンバーや現地に詳しい人たちが現地に赴き、碑文を起こし、碑文にはない建立の経緯や追悼の現状について取材を重ねた。
完成まで足掛け2年。「過酷な状況の中で犠牲になった人たちやその家族の運命に接し、涙ぐんだことも一度や二度ではなかった」と執筆陣は語る。協力者は100人以上に及んだ。今後は国立国会図書館や総聯本部、日本人有志に普及していく。また朝鮮半島や欧米にも広く発信するため、朝鮮語版、英語版も出版する予定だ。また、掲載できなかった碑の調査も続けていく。(瑛)
※資料集は1冊、3000円、問合せ先:朝鮮人強制連行真相調査団・資料集制作委員会(krc72@outlook.jp)
各地に様々な碑
祖国解放後、関東大震災時や強制連行期の犠牲者を追悼する碑が建てられたが、碑名に「朝鮮人」と書かれたのは福島の朝連猪苗代支部によって建てられた「朝鮮人殉職者慰霊碑」が初めて(写真)。関東大震災の朝鮮人虐殺に関しては日本国家による朝鮮人虐殺の責任を記した碑が47年に朝連千葉県本部によって建てられた。
千葉県には、性奴隷被害者を追悼した二つの碑がある。鴨川市の「名も無き女の碑」は、日本軍で衛生兵として従事していた二人の日本人が建てた。今は遺族が供養を続けている。
三重県には「追悼」と彫られた碑がある。三重県が発注した木本トンネル工事には、多い時で200人の朝鮮人が働いていた。工事も終盤に迫った26年1月2日、日本人と些細なケンカをした一人の朝鮮人が日本人に日本刀で切りつけられた。
翌3日に朝鮮人労働者がこれに抗議したところ、木本の住民が労働者の飯場を襲い、立ち向かった李基允さんが殺された。さらに、木本警察署長の要請を受けた町長が召集した在郷軍人によって裵相度さんが虐殺された。現地の日本人住職が建立した二人の墓は無縁墓地にあったが、当時4歳だった裵さんの次男が90年4月に熊野市を訪れたことを機に並んで置かれるようになった。