朝鮮からのおみやげ
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8月中旬、生まれて初めて祖国・朝鮮を訪れた中学生の息子が2週間を現地で満喫して帰ってきた。
トランク一杯に入った朝鮮のおみやげを見たときは驚いた。(没収されなかった!)という安堵と、朝鮮でこんなに大きな袋のお菓子を生産しているという事実に…。
14歳初の海外旅行。息子は、私が生まれた1972年に朝鮮に帰国した叔父や、その子どもたちとも初対面。朝鮮語で思いを伝えるのに苦労したようだが、二十歳ごろまで日本で育った叔父と日本語も交えながら話ができたようで、「楽しかった」と聞いたときは嬉しかった。
2002年、同胞障害者の家族たちが集う「ムジゲ会」に同伴し平壌を訪れて以来、16年もの間、朝鮮には行けずにいる。叔父もハラボジになったというし、5歳で帰国した従妹も海州で元気に暮らしているという。今回、息子が訪朝するということで、久しぶりに叔父や従妹に手紙を書いた。
地方に暮らす叔父は大袋のお菓子を息子に渡してくれた。目にした時には、その量と真心に心が温まり、子どもたちと小分けして世話になった人たちに配った。
帰日後、叔父から預かってきた手紙を父に渡したり、お土産話をすると、とにかく嬉しそうだった。日本で一つ屋根の下で育ったきょうだいが朝鮮に暮らしているのだ。「無事に幸せに暮らしているだろうか」という思いは、常に頭のすみにあるだろう。2世の多くは、親きょうだいといった、身近な親族が帰国しており、3世の私たちとは、祖国への思い入れが違うと感じるのは、こんなときだ。
息子がハラボジハルモニたちに買ってきたお土産を見て懐かしかったのは、そこに書かれた文字や刺繍。手の温もりが感じられるお土産が海を渡って人の手に渡る―。旅のささやかな喜びだ。この小さな幸せが「制裁」という名のもとに奪われてきたことを思うと、気が遠くなり、それを平気で続ける人間の意地悪さに腹が立ってきた。
訪朝中、息子は担任の先生がプレゼントしてくれた日記帳に、現地での出来事や自分の目でみた朝鮮の国の印象を毎日書いたという。世話になった平壌国際サッカー学校の先生が、別れる日、「サッカーは日本でもできる。けれど、朝鮮でボールを蹴ることで、私たちは友情を育むことができる」という言葉で見送ってくれたことに感動したという。一つひとつの話が心に染み入るのは、年をとったせいだろうか。
ルーツが宿る祖国―。
この大きな存在を、日本で生まれ育つ子どもたちに伝えていくことも、大人の責任だと感じたしだい。「制裁」なんぞに負けるものか。(瑛)