朝鮮学校で得られるもの?
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今週の頭から関西出張に来ている。「となりのトンポたち」「この街のオンマオリニサークル」「裁判記」の人物紹介の取材を終え、そのほか8月号の特集と関連して京都朝鮮中高級学校での社会科授業を見学、大阪大学に通う同胞学生も取材した。本日、立命館大学で准教授をしている同胞をインタビューしたあと東京へ戻る予定だ。
8月号は、朝鮮学校の今とこれからを見つめ、考察する内容の特集を準備している。テーマがテーマだけあって、取材範囲の設定から具体化までなかなか難しい。しかし、同胞たちからさまざまな視点を教えてもらうごとに発見があり、面白い。
昨日は、大阪大学4年で在日本朝鮮留学生同盟大阪にも所属し活動する同胞から、朝鮮学校に通う意味や、そこから得られるものについて話を聞いた。まだうまくまとめきれていないが、かれが話したことの中で印象的だった言葉を箇条書きで紹介したい。前後の文脈もある中で断片的に引用していることを了承のうえ、「問い」につなげてもらいたい。※()は記者補足
(朝鮮学校の児童・生徒数が減少していることについて、学校の選択)「最近思うのは、選択がフェアじゃない。“朝鮮人として生きること”と“私として生きること”は当然に両立できるべき。しかし、“朝鮮人”であることを捨てないと“私”として見てもらえない社会が今あって、明らかに天秤の片一方に重いものが乗っている。それがいわゆる同化政策とも言えるだろうし…」
「(朝鮮学校の価値や意味を)言語化しないと(人が)集まらないというのは権力の成功だと思う」
「(朝鮮学校に通った人の)一番強いの(部分)は、最初に『自分は朝鮮人』という主観がくること。理由なんていらない。ただ『朝鮮人である』と思わせてくれる。(朝鮮学校に通った)客観的な理由(意味、意義)が欲しいなら卒業後に探せばいい」
「なんで在日であることに“メリット”が必要なのか? そういう社会は悲しいと思う」
「いわゆる成功とか成果というものさしは、僕たちと日本の人たちとでは違うはずなのに、なんで日本の成功の枠組みの中で宣伝しようとするのか。例えば朝鮮学校の教員という職業はすごく重い選択なのに、なかなか取り上げられない」
「朝鮮学校のいいところを紹介しようとするとスーパーマンしか描かれない。日本社会で“ふつうの人(“朝鮮人”というレッテルに左右されず、“自分自身”)”として生きられるのがいいところなのに。同胞社会は成功者だけで作られているものではない。みんなふつうの人」
かれは小学校2年生の3学期の終わりに朝鮮学校へ進学したという経緯を持つ。
「“朝鮮人である〇〇”というのを、“〇〇は朝鮮人である”という風に構成し直してくれたのが朝鮮学校。何をしても“朝鮮人”というレッテルがついてまわっていたものを、朝鮮人というのは自分の一面でしかないという風に相対化してくれた。言葉は悪いかもしれないけど、肩に乗っていたすごく重いものを軽くしてくれた感じ。今の日本社会では、在日朝鮮人というのは生まれ持ってマイナスだと思っている。それがゼロになる感覚。朝鮮学校は朝鮮人という枠を取っ払ってくれた。枠が取り外されてやっと個人が見えるし、個性が浮き上がってくる。それをどう磨いて活かして発信していくかは個々人の自由」
「あまりにも大人たちが意味を付与しようとしているように感じることもある」
個人的には、物事の前提を常に問い直し、現在の環境や状況を常に認識したうえでさらに考えを深めていくことが大事だと感じた(かなり抽象的なまとめになってしまったが…)。8月号の誌面では他の方のコメントも並べながら、1本の記事に仕上げたい。(理)