2019年上半期の個人的ナンバーワン映画
広告
早いもので、今年ももう半分が過ぎた。
近年、劇場で映画を観る機会がどんどん少なくなっている。今年上半期は10本弱だろうか。最後に劇場で観た映画は『ブラック・クランズマン』(スパイク・リー監督)。5月末、新宿の某映画館で上映最終日に鑑賞した。1970年代の米国で白人至上主義団体KKK(クー・クラックス・クラン)の地方支部に潜入捜査を行った黒人警察官ロン・ストールワースの実話を基にした作品で、2018年カンヌ国際映画祭グランプリ、今年度のアカデミー賞脚色賞を受賞した話題の映画だ。個人的にも今年劇場で鑑賞した作品の中でナンバーワンの評価なので、鑑賞から1ヵ月以上経っているが感想などを書き記したい(この鑑賞本数でナンバーワンを決めるというのもおこがましいが)。
物語の舞台は70年代の米国西部のコロラド州コロラドスプリングス。この地で初のアフリカ系アメリカ人警察官として採用された主人公のロン・ストールワース(ジョン・デヴィッド・ワシントン、名優デンゼル・ワシントンの息子!)は、たまたま新聞広告に掲載されていたKKKのメンバー募集の記事に目をとめる。潜入捜査のためそこに記されてあった番号に電話をかけたロンは白人の過激な差別主義者を演じ、面接へとこぎつける。しかし、黒人であることに加えて、うっかり本名を名乗ってしまったロンが実際に面接に行けるはずもなく、同僚のユダヤ人刑事フリップ・ジマーマン(アダム・ドライバー)に協力を依頼する。電話ではロン、対面ではフリップがロンを演じるという方法で、2人の刑事による危険な潜入捜査が始まる。組織の奥深くに入り込んだ2人は、最高幹部のデービッド・デュークに迫っていく—。
作品の原題である”BlacKkKlansman”は”black”(黒人)、”KKK”(Ku Klux Klan、クー・クラックス・クランの略称)、”Klansman”(KKKのメンバー)という3つの言葉を合わせた造語。ブラックとクランズマンの間にKのスペルが3つ並んでいる。
普通に考えて、「黒人警察官がKKKに潜入捜査なんて絶対に無理だろう」と思っていたが、種明かしはあらすじの通りだ。
なぜこの作品を高く評価するのかというと、映画としての娯楽性を追求しながら、社会に対して鋭い批判のメッセージを放っていること、そして、観客を物語の中に埋没させず、観る側の立ち位置をも問う映画になっていると思うからだ。
冒頭からスクリーンに引きつけられた。南北戦争で南軍の負傷者が地面に横たわる間を歩くスカーレット・オハラと、はためく南部連合旗—。『風と共に去りぬ』のワンシーンだ。次に映るのは、KKKを正義の救世主として描いた『國民の創生』の映像の前で人種差別的な発言をまくしたてる男性。この男性を演じているのは、米国のコメディ番組でトランプ大統領のモノマネを披露していることでも有名な俳優アレック・ボールドウィン。強烈な皮肉だ。
『風と共に去りぬ』『國民の創生』といった米国映画の名作の映像を引用しながら、これらの作品に潜む人種差別も取り上げる演出は見事。冒頭のシーンで印象的に使われた旗というアイテムはラストでも登場し、強烈なメッセージを放つことになる。そして、『國民の創生』も本作のハイライトともいえる場面でふたたび登場する。
印象に残った場面をいくつか挙げると—。
作中に登場するKKKのメンバーの中でもとりわけ過激な人物として描かれるフェリックスが、「ホロコーストは嘘、ユダヤ人のでっち上げ」と発言する場面がある。かれがどれだけヤバい思想の持ち主なのかが描かれるシーンなのだが、日本でも同様のことをSNSで公言している著名人がいたことを思い出した(某有名美容整形クリニックの院長)。
黒人公民権運動の集会とKKKの入団儀式のようすを交互に見せる場面は本作のハイライトといえよう。公民権運動の集会では1916年に起きた「ジェシー・ワシントンリンチ事件」に関する凄惨な証言が話される(証言者の老人を演じているのはハリー・ベラフォンテ!)。一方、KKKの入団儀式に参加した白人至上主義者たちは『國民の創生』を鑑賞しながら喝采を叫ぶ(その姿は今でいう「応援上映」のよう)。熱狂するKKKメンバーの描写は醜悪で、黒人側の集会との対比がいっそう際立つ。
本作でもっとも物議をかもしたといわれているのがラストの演出。家の外で物音が聞こえ、主人公のロンとパトリスが銃を構えてドアを開けると、そこには十字架を燃やす白装束の人びとの群。そして21世紀の米国の実際のニュース映像が唐突に挿入される。2017年8月12日、バージニア州シャーロッツビルで起きた惨劇(白人至上主義者が反人種差別デモに車で突っ込み、参加者の白人女性をひき殺した)の映像だ。映画に登場したKKKの最高幹部デービッド・デュークが、40年の時を経て2017年のシャーロッツビル事件の現場にも姿を現す。事件を受けて、「どちらの側も暴力的だった」と白人至上主義者たちをはっきりと批判せず実質的に擁護したトランプ大統領の姿も映る。私の隣に座っていた男性は、トランプ大統領が画面に登場すると、スクリーンに向かって中指を突き立てていた。ちなみに、作中でデュークの口から発せられた「アメリカ・ファースト」はトランプ大統領がよく使うフレーズとして有名だが、デュークはこのスローガンを最初に広めたのは自分だとインタビューでのべている。
犠牲者の女性の写真と追悼の花束、そして“No place for hate”(ヘイトに居場所なし)のメッセージも映し出される。
このラストの演出には賛否両論あるが、自分は「アリ」だという立場だ。作品の舞台は70年代だが、そこで描かれている問題が現在と地続きだということを端的に表している。白人至上主義者によるヘイトクライムは今も起こっており、その光景は冒頭の南軍旗や『國民の創生』にもリンクする。
スパイク・リー監督がなぜ今この映画を作ったのか。作品が持つアクチュアリティがあのラストシーンに凝縮されているように思えた。
映画は逆さまになった白黒の米国旗を映し出して終わる。上下逆になった国旗は何を意味するのか。映画の解説によると、米国の国旗に関する法律には次のような規定がある。「生命や財産に極度の危険が迫っている際、その危険を伝える目的を除き、下方に傾けて掲揚してはならない」(つまり、現在、米国内で生命や財産に極度の危険が迫っていると監督は警告している)。
この作品が放つメッセージの射程が米国内にとどまるものではないということは言うまでもないだろう。(相)