朝鮮幼稚園、1970年代の教員たち
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2020年1月号の本誌連載「朝鮮学校百物語」では、1970年代に朝鮮幼稚班で教員を勤めた女性たちを紹介しました。
大阪、兵庫、東京で30~40年以上もの間、子どもたちを育てた先生方は、1、2世の方々で、私の母の世代にあたります。
朝鮮幼稚園は、1950年に愛知県で初めて生まれ、60年代から朝鮮学校に付属する形で増えはじめます。この頃、朝鮮学校の児童生徒は爆発的に増えていました。子どもたちを受け入れるための校舎新築が続き、共働きの家庭のニーズを受けとめよう、早い時期から民族教育を、と各地に朝鮮幼稚園が続々と生まれていきます。
大阪では、1960年代に幼稚班が増えだします。64年、東大阪朝鮮第5初級学校にはじめてユチバンができ、一時は100人以上の園児がいたといいます。当時、同校の小学校で教員をしていたパク・シンジェさん(74)は、結婚後、幼児教育の重要性を感じ、自願して大阪福島朝鮮初級学校の幼稚園教員になったお一人です。
当時、朝鮮幼稚園の現場を担っていたのは、朝鮮学校で教員の経験があったり、日本の大学や専門学校で保育を学んだ同胞女性たちでした。かのじょたちは、教材作りや保育の実践に明け暮れます。なぜなら、何もない所から始めなければならなかったからです。
最初は初級部のように、子どもたちを机に座らせて教えていたものの、これではダメだと、「遊び」と「実体験」を取り入れながら、ウリ式保育を生みだしていきます。日本の保育園や幼稚園を訪ねてヒントを得たり、日本の保育団体が主催する全国レベルの勉強会に足を運び、子どもの情緒や発達について貪欲に学びます。同時に、各地の朝鮮幼稚班と経験を共有しながら、一つひとつの実践を積み重ね、全体のレベル向上に貢献したのでした。
かのじょたちは、幼稚班教員でありながら、わが子をユチバンで育て、家庭では嫁として、母としての仕事も同時にこなしていました。過ぎし日々を振り返るなかで、目を潤ませる姿に胸が熱くなり、今年で一番、心に残る取材となりました。
名も無き人々のがんばりがあっての今。いつの日も、そのことを忘れてはならないと感じたのでした。(瑛)