始まりのウリハッキョ編 転換点となった77年度の改編 vol.52「日本語」教科書の歴史(上)
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在日朝鮮人にとって「外国語」でありながら、生活においては第一言語である日本語は朝鮮学校でどのように教えられてきたのか。日本語の教科書編さんの歴史を2回にわたってつづる。初回は、1955年の総聯結成後から日本語教科書編さん史における大きな転換点となった77年度の改編にいたるまでの時期に焦点を当てる。
60年代末まで日本の教科書を使用
総聯結成後の朝鮮学校における教科書編纂事業は、大きく分けると7回にわたって行われた。結成直後の55年から57年にかけて行われた第1次、63~64年の第2次編さんまで、独自に教科書を編さんする力量が十分に備わっておらず、主に53年、55年に祖国・朝鮮民主主義人民共和国から送られてきた教科書を学友書房で翻刻出版(写本・版本などを、原本どおりに活字に組むなどして新たに出版すること)したりしていた。日本語科目に関しては、当然ながら祖国には在日朝鮮人向けの日本語の教科書が存在しないため、独自の教科書を編さんする必要があった。しかし当時は、上記のような理由もあって編さんが容易ではなかった。
総聯結成翌年の56年度でいうと、「日本語の教科書は今年編纂できなかったため、日本の出版社の教科書を用いる」ことが決まった、と当時の文書に記録が残っている。当時使われていた日本語教科書は、▼初級部は、中教出版社の『こくごのほん』(1~2年)、『国語の本』(3~6年)、▼中級部は、教育出版社の『総合 中学国語』、▼高級部は、同出版社の『標準 高等国語』となっている(在日本朝鮮人総聯合会中央常任委員会「教科書使用に関する解説―主に中高級学校に関して」1956年3月2日、『朝鮮学校の教育史―脱植民地化への闘争と創造』【呉永鎬著、明石書店、2019】より引用)。
同書によると、当時の日本語科目では、「50音から始まり、6年間の当用漢字をすべて理解し、現代文を読んで書ける程度に教育する」(初級部)、「現代日本語を解読し、叙述できるようにする」(中級部)、「現代文を十分に解読して、若干の古文を理解できるように教える」(高級部)などが到達目標として掲げられた。「日本語によって情緒教育をしない」「日本の教科書のすべての内容を教えるのではなく、民族教育の目的に適合する内容を取捨選択して教える」というのが共通の方針として定められた。ここからは、当時、日本語科目が「外国語」としての位置づけを強調され、読む、書く、聞く、話すという機能的側面の育成のみが重要視されていたことが読み取れる。
初の独自編さん教科書
その後も日本の教科書を使っていたが、一方で独自の教科書を編さんしようという動きも広まっていた。そうして完成したのが、69年から使われた、日本語科目としては初となる独自編さんの教科書だった。名称は、初級部が「일본말공부」、中・高級部が「일본어학습」。
この「69年教科書」の編さんは67~68年にかけて行われた。東京大学卒業後、東京朝鮮中高級学校の教員として編さんに携わった宋都憲さん(84、元学友書房副社長兼編纂局長)は当時を振り返ってこう語る。「初級部から大学まで日本各地の担当教員数十人が十条駅近くの施設で合宿するなどして、執筆作業に没頭した。みな、自分たちの教科書を作るんだという情熱にあふれて、精魂を傾けた」。
「69年教科書」は、祖国のテキストの翻訳と書き下ろしのテキストが中心となっている。掲載されている文章をいくつか挙げると、金日成主席の伝記『ふるさとマンギョンデ』(初4)、軍事独裁政権時代の韓国の少女が書いた詩『兄さんと姉さんはなぜうたれたのですか』(初5)、在日朝鮮人の来歴をまとめた『わたしたちはなぜ日本に住むようになったのか』(初6)、朝鮮の小説『栄誉』(中2)などだ。これに加えて、「手紙を書く」「漢字の学び方」「日本語の品詞」などの学習教材も掲載された。後に記すように、「69年教科書」は77年度の改編を通じて内容が一新されるが、それでも一部のコンテンツは改編後も変わらず掲載され、日本語学習のテキストとしての役割を果たしていくことになる。
日本人作家の文章を掲載
「69年教科書」は76年まで使われた。日本語科目における初の独自教科書という意義は大きかったが、時代の流れとともに改善が必要な箇所が出てくるようになった。宋さんの当時のメモには、「69年教科書」に対して次のような分析、評価が記されている。
「祖国の文章を翻訳したものが主で、その多くが解説調なので、文体の多様性が十分に保証されていない。結果として、口語調の文章や生活に身近な内容を十分に入れることができておらず、外国語の素養を高めるうえでも不十分な点が多い。また、文のテーマがほかの社会科目と似通っているものが多いため、生徒たちの興味を減少させている」
日本語教科書編さんの歴史で転換点となったのは74~77年の第3次改編だ。「69年教科書」の足りない部分を補った新たな教科書が77年度から導入された。
日本語の読み書き、会話能力に関する豊富な知識を体得できる教材が取り入れられ、文章のテーマや文体も多様化された。夏目漱石、芥川龍之介ら日本人小説家、詩人、評論家80人あまりの作品が全面的に取り入れられ、その割合は中高の教科書で60~85パーセントを占めた。東京中高から総聯中央教育局に移り、73~78年までカリキュラムや教科書編さんなど朝鮮学校の教育内容に関する分野を担当していた宋さんは、自身も携わった77年度改編のポイントをこのように説明した。
もっとも大きな変化は、日本人作家による文章が多く取り入れられたことだ。今ではあたり前だが、当時としては画期的なことだった。『ごんぎつね』(新見南吉、初4)、『空気がなくなる日』(岩倉政治、初5)、『あいさつ』(壷井繁治、初6)、『セロ弾きのゴーシュ』(宮沢賢治、中1)、『清兵衛と瓢箪』(志賀直哉、中1)、『坊ちゃん』(夏目漱石、中2)、『夕鶴』(木下順二、中3)、『拍手しない男』(藤森成吉、高1)、『羅生門』(芥川龍之介、高2)、『蟹工船』(小林多喜二、高2)などは77年改編教科書で初めて掲載され、現行の第7次改編教科書にも引き続き掲載されている名作だ。
「多様な文体、多様なテーマ、生徒たちの興味を引くような内容、日本社会・日本人の心理を知るうえで役立つような文章を収録した」(宋さん)というのが作品選定の基準だ。
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朝鮮学校の教育において日本語科目は独特の地位を占めている。「日本語は朝鮮学校で学ぶ子どもたちにとっての第一言語であり、母語だ。同じ外国語教育でも、日本語と英語では明らかに目標が違う」(宋さん)。その独自性を教育現場に具現するために試行錯誤しながら教科書編さんに取り組んできたのが各学校の担当教員や学友書房のスタッフたちだ。次回は80年代以降の改編について、編さん事業に携わった人びとの奮闘やエピソードを交えてつづる。