vol.29 自己を正当化する「魔法の杖」マスク不支給、問題の根っこにあるもの
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「問いかけに応答する誠意と責任感」、「恥を恥として感じる感性」、「他者の痛みへの想像力」——。これらは人と人の関係、ひいては社会を成り立たせる大前提だが、人は得てして属性や所属、法的地位の違いなどで線を引き、これらを忘れ去ってしまう。さいたま市のマスク問題を取材して考えたのは、そんな人間の醜さと恐ろしさだった。
報道で、市が幼保の職員に備蓄マスクを配っていると知った朝鮮幼稚園の園長が3月10日、市に問い合わせたところ、職員は、朝鮮学校は市の管轄外で配布対象外と告げた。食い下がる園長に職員は、朝鮮幼稚園でマスクが不適切に使われた際、市に監査権限がないことを「理由」にあげた。翌日、関係者から「『不適切』とは、転売の意味か」と質された担当者は、「それも含まれる」と言い放った。無償化裁判での国側の主張「総聯傘下の朝鮮学校に公金を出せば、流用される恐れがある」に倣ったのだと思う。国が率先してきた朝鮮学校の「例外化」は、今や地方行政を含む地域社会全般に浸透している…。(続きは月刊イオ2020年5月号に掲載)
写真説明:マスク不支給が判明した翌日の3月11日、さいたま市役所を訪れ、抗議する埼玉朝鮮幼稚園の朴洋子園長(左)と在日本朝鮮人人権協会の金奉吉会長(司法書士、右、撮影:朝鮮新報・韓賢珠)
写真:中山和弘
なかむら・いるそん●1969年、大阪府生まれ。立命館大学卒業。1995年毎日新聞社に入社。現在フリー。著書に「声を刻む 在日無年金訴訟をめぐる人々」(インパクト出版会)、「ルポ 京都朝鮮学校襲撃事件――〈ヘイトクライム〉に抗して」(岩波書店)、「ルポ思想としての朝鮮籍」(岩波書店)などがある。『ヒューマンライツ』(部落解放・人権研究所)の「映画を通して考える『もう一つの世界』」を連載中。