私は竹槍で突き殺されるのか
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排外主義者たちの夢は叶った。
特別永住者の制度は廃止された。外国人への生活保護が明確に違法となった。公的文書での通名使用は禁止となった。ヘイトスピーチ解消法もまた廃され、高等学校の教科書からも「従軍慰安婦」や「強制連行」や「関東大震災朝鮮人虐殺事件」などの記述が消えた。——
先週、小説『あなたが私を竹槍で突き殺す前に』(李龍徳著/河出書房新社)を読んだ。冒頭にあるような状況のなかで、幾人かの「在日韓国人」が社会を変えるための計画に身を投じていくまでの物語だ。
文中で語られるいくつかの“事件”の全容や登場人物の過去がすぐには明かされず、難しいかな…と感じる読み始めだったが、いつの間にか引き込まれて早々に読み終えた。
17日(金)には、新型コロナ感染拡大のなかでも細々と続けられている金曜行動のようすを知るため文科省前に出かけたのだが、帰りの電車で本を読んでいるとだんだんと世界観に没入していき、駅に着いてパッと顔を上げたときに一瞬「在日」である自身の身を案じるような、現実とフィクションをかなり混同してしまうような精神状態にまでさせられていた。
リアルなのである。現実に起こった事件をモチーフにしたであろう事件が同書でも語られる、いま社会で起こっていることがさらに悪化したらこうなるだろうということが書かれている。途中、読むのをやめたくなるような暴力被害の描写もあるが、それも十分に起こりうることだった。
結末は空虚だ。ネタバレになるので詳しくは書けないが、私は洋画「ミスト」を思い出した。いや、別の感想を持つ人もいるのだろう(現にネットで李龍徳さんのインタビュー記事を読むと別の解説が出てくる。そもそも「ミスト」も解釈はさまざまである)。もし読了した人がいれば感想を語り合いたい。
私の語りたいポイントはもう一つある。それは「在日朝鮮人」が主軸にいっさい出てこないことだ(途中でサブキャラとして登場するがそれも直接にではない)。登場人物はあくまでも「在日韓国人」を自称する人々である。
自分をどう位置づけるかは言葉に表れると思っている。朝鮮学校卒業者あるいは総聯コミュニティ内部の人々は「在日朝鮮人」を自称することが多い(場合によって「韓国人」や「在日コリアン」、「在日韓国人」を使い分けることもあるが)。それは「在日朝鮮人」としての歴史を学んだり経験を通して立場を自覚しているからだ。
いま、在日朝鮮人による権利獲得の取り組みが、イコール排外主義とのたたかいにおいて少なくない位置を占めていると思う。人種や所属や国も大きく超えて、連帯の声も広がっている。この物語の中の社会には、その「爪痕」がないように感じた。抵抗が書かれていなかった。
単純に言えば、きっと私は「自分たちはもっと頑張るよ、こんな社会にはしないよ、したくないよ」ということを思いたかったのだろう。
機会が叶えば作者にもインタビューしたい。(理)