始まりのウリハッキョ編 vol.54 1986年に刊行、朝鮮語小辞典 /私たちの、舟を編む―
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在日朝鮮人の中等教育が40周年を迎えた1986年5月、朝鮮学校の子どもたちが朝鮮語を学ぶための辞書「朝鮮語小辞典」が刊行された。1世の言語学者、朝鮮学校で教壇に立った元教師…。朝鮮語教育の発展のため、辞書作りに励んだ人たちの歩みを追った。
見出し語は1万8390語
「在日朝鮮人が日本語の言語環境の中で母国語を学び、生活のあらゆる分野でそれを生かしていくには幾多の隘路がある。さらに日本で生れ育った2世以降の世代が、初めて母国語を取得し、それを正確に使いこなせるようにするためには、体系的な言語教育とともに、彼らのおかれている実情にマッチした辞典が必要なことは言うまでもない。しかし、今までに出版された辞典には、初・中級程度を越えるものが多く、しかも大抵は大きすぎてその利用に不便な点が多かった」(「朝鮮語小辞典の編纂趣旨」学友書房作成、1986年5月)
辞典作りが始まったのは1978年。時は団塊ジュニアが大挙して入学した頃で、日本で生まれ育った3世たちが増えだしていた。朝鮮半島出身の1世が暮らしの場から減っているという言語環境、母語が日本語で朝鮮語を第二言語として学ぶ初学者が増すなか、朝鮮学校の朝鮮語教育は新しい課題に直面していた。
編集は教科書制作会社の学友書房が担当した。編纂委員は、編纂局長の金永吉(1世)、朝鮮語学者の朴鍾元(1世)、金容安(1世)、金光淑さん(2世)の4人で全員が朝鮮学校の教員経験者。挿絵は李耕雨さん、校正は、李徳鎬、金栄治、李成出、朴淳栄さんらが担当した。
朝鮮語小辞典は、初級部4年から中級部までの6年間に使えるものを目指し、基礎作業は78年から始まった。編纂委員たちが一番苦労したのは、総計1万8390語となる見出し語の選定だった。朝鮮学校で使っていた教科書の語彙調査で収集した約8000語を基本にしながら、日常生活に必要とされる言葉を付け加え、最初は収録する言葉を1万3000語にした。その後、国語(朝鮮語)の教授要綱(小・中学校)にある指導語彙と分野別の語彙体系で欠如している部分を補い、見出し語を1万8390語とした。
朴鍾元さんは辞典を出した年の暮れ、辞典づくりの難しさをこのように吐露していた。「最初に着手したのは、教科書の語彙調査であったが、数十万枚の単語カードの整理や見出し語の選定作業は、『うんざり』ということばではいい表せないほどの忍耐力が要求された。…『朝鮮語小辞典』の見出し語は、教科書語彙にもとづく客観的方法に加えて、ネーティブスピーカー、母国語インフォルマントらによる基本語彙の補充が行われ、さらに初中校の教育語彙がつけ加えられた。この作業は順調に行われたのではなく、幾多の進退の途をたどった」(「『朝鮮語小辞典』を編纂して」『朝鮮新報』1986年11月5日付)
見出し語の選定においては、初学者のために2点を留意したと記録されている。第一に、言葉を調べやすくするため、音声が変わる言葉(用言の歴史的交替)は、変化した形態を見出し語に立て、注釈に原型を書いた(例:서툴러→서투르다)。第二に、固有名詞については、国名、歴史的事件(人名を除く)、地名、団体などの名称を、初中学校の教科書から抽出した。
語彙の説明はわかりやすく
意味の注釈は、朝鮮大学校をはじめとする現場教師の協力を得て、学友書房の編纂委員によって書かれた。語彙の意味を、朝鮮語でわかりやすく説明しつつ、日本語の対訳をつけたのも特徴だろう。また、発音が変化する言葉は表記を加えた(例:다듬다[따])り、長音で発音する箇所を表記した。朝鮮語を日本語から理解する、という3世の特性に合わせ、本文とは別に日本語の基本語彙の中から1万語を厳選し、朝鮮語対訳をつけたのも特徴だ。
また、言葉の意味の注釈は、基本的に朝鮮民主主義人民共和国で出版された「현대조선말사전(現代朝鮮語辞典、1981年、科学・百科辞典出版社)」を種本とし、朝鮮語辞典(1960年、科学院言語文学研究所)、朝鮮語規範集(国語査定委員会、1969年)、朝日語彙集(1982年、外国文図書出版社)、日朝辞典(1976年、平壌外国語大学)なども参考にした。ほとんどすべての見出し語に意味ごとの例文を挙げ、単語結合の例をあげた。
「意味注釈でもっとも苦心したことは、意味が単なることばの置き換えではなく、本質的な内容をわかりやすく説明することに力をつくした点である。体言にせよ、ことばは、感覚、感動を表す単語から抽象化、一般化された概念を表すことばに至るまで実に色々様々である。しかし、固有名詞を除いては多かれ少なかれ概念とのかかわりあいを中心に置いて注釈されなければならない」(朴鍾元さん、前述記事)
編集委員の一人、金光淑さん(78、東京都在住)は、「朴先生が多くの仕事をされました。辞典作りは初めてのことだったので、いろんなところに調査にも行かれていました。南では一冊の辞典作りに何十人、100人単位の人間が動員されている話も聞きました。正月休みも返上して自宅で校正を続けたことも思い出です」と振り返る。祖国への帰国が実現された1959年に東京朝鮮中高級学校を卒業した金さんは、東京第2初中(当時)、東京第7初中(当時)など10年の教員生活を経て学友書房に勤務。朝鮮語の教材作りに携わってきた。
完成した辞典に ”涙止まらず”
78年から始まった辞典作りは、84年までに写植が完了。しかし、その後の校正はほぼ10回に及んだ。朝鮮の権威ある出版社に最終校閲も受けた。「完成された辞典を手に取った時は涙が止まりませんでした。金容安さんが『よくついてきた』とほめてくれて。子どもたちの民族の心を育てるためには、朝鮮語が大きな役割を果たします。歯を食いしばってがんばってよかった」。当時の話に胸を高ぶらせる金さん。「現場で使える辞典を」「子どもたちが使いやすい辞典を」との思いが、辞典づくりの原動力となっていた。
朝鮮語小辞典には、子どもたちが朝鮮語やその世界をイメージできるよう、付録として、原色図や図表がふんだんに取り入れられている。朝鮮地図、朝鮮民主主義人民共和国の国章と国旗、鉱物、アゲハチョウと鮭の一生、昆虫、獣、鶏、魚、水中にすむ動物、淡水魚、花、果物、朝鮮の民族楽器などだ。本文にも、800余点の挿絵を加え直観的な理解を促している。
挿絵と本の装丁を担当したのは李耕雨さん(79、埼玉県在住)。朝鮮半島から渡日した1世で、東神戸朝鮮初級学校(当時)、東京中高を卒業後、東京朝鮮第5初中級学校で美術教員として働いた。25歳からは、文芸同美術部に属しながら1世画家の金昌徳さん(1910~82)の家の2階に下宿しながら、武蔵野美術学校に通い、30歳から35年間、学友書房に勤めた。
朝鮮語小辞典に描かれた挿絵は、ハガキサイズの画用紙に李さんが一点一点描いた。「創作ではないので、ものを正確に写す、細密に描くことに気を配りました。日本の図鑑や朝鮮で出版された動物辞典や植物辞典も参考にしました。辞典が世に出た後は、子どもたちにどれほど利用価値があるのか、気になっていました」。
現在、学友書房では、新しい朝鮮語辞典を作成中だ。