実在した朝鮮学校が舞台に―文学座公演「五十四の瞳」、15日まで!
広告
文学座による演劇公演「五十四の瞳」が、11月6日から15日まで、東京・新宿の紀伊國屋サザンシアターTAKASHIMAYAで行われている。脚本は、「焼肉ドラゴン」などを手がけた鄭義信さんだ。
瀬戸内海に浮かぶ小島・西島に実在した朝鮮学校が舞台となった「五十四の瞳」。舞台の広報担当者が日刊イオに書かれていた関連記事を目にしたそうで、イオ編集部に取材依頼があった。
該当の記事を書いたのは(相)さんだが、月刊イオ12月号の文化レビュー担当が私だったので、おこぼれにあずかるような形で先日、鑑賞してきた。以下、12月号掲載のレビューと、少し補足もして内容を紹介したい。
***
●ともに生きる場所をともに守る
姫路港から西南方向18kmの瀬戸内海にある家島諸島。その一番西に位置する西島には、朝鮮人と日本人が仲良く机を並べて共に学ぶ朝鮮学校があった。「五十四の瞳」は、1969年まで西島に実在した家島朝鮮初級学校を取り巻く島民たちの人間模様と成長を描いた大作だ。
物語の始まりは1948年。家島朝鮮小学校で学び中学生になった昌洙、萬石、そして日本人の良平は、日本各地で起こっている朝鮮学校の強制閉鎖と、それに抗議するためたくさんの同胞たちが兵庫県庁前へ集まっていることを知る。
「自分たちの学校を守りたい」、デモへ飛び込む3人だったが、それぞれが心に深い傷を負うことに。その後も朝鮮半島や日本国内で起こる情勢の変化は、幼い頃から唯一無二だったかれらの関係にも影を落とし始める…。
時に重い心情を抱える人々を描いてはいるものの、物語は笑いに満ちている。作家が演出的に書き加えたユーモアではない。いさかいがあっても同じ方向へ帰り、職場で顔を合わせ、食べ物を分け合い、つながりの中心である朝鮮学校にまた集まって笑い合う。それがともに暮らす人々の日常だったのだろう。
かつて朝鮮人と日本人が肩を並べて学んだ場所と時代の物語を、同様に朝鮮人と日本人が肩を並べながら鑑賞する。互いに自分の価値観や立場からは測り得ない、相手側の心に思いを馳せる―。現代の日本社会に作られたこの空間の根底には、「ともに生きる場所をともに守る」ことへの願いが込められているように感じた。
***
「南北統一国家」のために朝鮮戦争に参加することを決めたという萬石。同胞との戦争に身を投げようとする親友に憤りをぶつける昌洙。「なごやかにやりましょ、ね」と場をおさめようとするミツコ(良平の母)に向かって投げつけられる「うるさい! 日本人は口出すな!」、そんな昌洙を叱り飛ばす、アボジ・元洙の「差別すな!」。次から次へと飛び交う台詞にドキリとすることも。
一方、家島朝鮮初級学校の教員・康春花に恋し何度も求婚する息子・良平を見ながらも、頑なに結婚を承認しようとしないミツコ。「なにが問題や? 年上やからか? 朝鮮人やからか?」という元洙の問いに直接は答えず、吐き出した「あたしの気持ち、だれにも分からん!」…。
完全には分かり合うことのできない登場人物たち。けれどもかれらは何年経ってもまた朝鮮学校に戻り、近況を共有し笑うことができる。時に「日本人」「朝鮮人」という言葉を持ちだしてぶつかっても断ち切られない、しなやかな人間関係。場所の特殊性から、恐らく本当に形成されていたであろう関係性がリアルに描かれているように思えた。
同作の上演時間は休憩込みの2時間45分。ここには書ききれない場面がまだまだある。かなり個人的なことを言うと、登場人物の一人である昌洙の性格や言動が、身近にいる人物の雰囲気にとても似ていて(しかも同じ名前である)にやりとする瞬間が多々あった。
東京では15日まで、大阪では18日に上演されるほか、ライブ配信も行われる。詳細はこちらから。(理)