シンガポール合宿㊦ダイバーシティってこういうこと!
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さて、前回のブログではぎらぎらのシンガポールを紹介したので、今回はエスニックシティを。
シンガポールの歴史をさくさくとたどると…
・1819年、大英帝国(当時)のラッフルズ卿のトーマス・ラッフルズが現在のシンガポールに当たる場所に上陸。湿地に覆われたこの島に計り知れない可能性を見出し、ジョホール王国から許可を得て、商館を建設。シンガポールを交易拠点として整備した。その後まもなく、シンガポールは中継貿易の拠点として急速な成長を遂げ、中国やインド、マレー半島をはじめ、さらに遠方の国々から多くの移住者が入植。
・1824年、正式にイギリスの植民地となる。
・1942〜45年、第二次世界大戦中に日本の植民地に、1946年、再びイギリスの植民地となる。
・1959年、独立運動が高まり、イギリスより自治権を獲得し、シンガポール自治州になる。
・1963年、マレーシア国家の成立にともない、その1州になる。
・1965年、マレーシアより分離。シンガポール共和国として独立。
ということで、19世紀初頭からさまざまな民族が集まる地域となっている。
独立後も外資誘致に注力し、また、現在も貿易拠点としての立地の良さと、シンガポールへ投資する企業や参入企業への税制面の優遇により、金融やITなどの外資企業が大量に流れ込んでいる。さらに、シンガポールに一定額以上投資する富裕層には永住権を与えるなど、富裕層の取り込みにも積極的に動いているので、人・物・金が世界各国から集まっている。
なので、さまざまなエスニックシティがあるうえ、植民地時代の建設物が残っている。
▼クラークキー

旧ヒルストリート警察署。現在は情報通信省の建物だそう

クラークキーの練り物屋(?)にあった豆腐のようなものたち。今見たらなかなか美味しそう…
▼チャイナタウン

左に見えるのは、スリ・マリアマン寺院。インド人居住者が数多くいた1827年に建てられたヒンドゥー寺院

寺院に入ってみたものの、祈り方がわからず退散

ミャンマーやベトナムから仕入れた漆器。きれいだが、「んー、使わなさそう」という現実主義を発揮し、購入には至らなかった。

中国とマレーの文化が融合したプラナカンは、シンガポールのルーツとも言える文化だそう。この陶器類は少し高い。「鮮やかすぎて、家にあっても家具の色彩と合わなさそう」と、またもや謎の現実主義を発揮し購入には至らなかった。買えばよかった。
▼リトル・インディア

テッカセンター。中には果物、野菜、肉、魚、服、飲食店が立ち並び、においがきつかった
▼アラブ・ストリート

サルタンモスク

鮮やかなうえ安かったので、この類のコースターをばらまき用のお土産として購入。まったく同じ陶器たちを会社の近所で見つけた時の悲しみは計り知れなかった

アラブ風お好み焼きのムルタバ(食わず嫌いの私は、友人が食べる姿を見守っていた)
▼カトン市
プラナカン文化が多い地域らしいが、あまりお店を見つけることができなかった。
▼ハジ・レーン周辺
アラブストリートのすぐ近くにある、ファッションや雑貨が並ぶ商店街。ウォールアートが多く、いわゆる「映え~」な地域。
脇道にも、撮れと言わんばかりのウォールアート。
▼お土産編
どうしてもその国発祥の何かを買いたかったのだが、前述したとおり多文化な国。おそらくプラナカンが一番「シンガポールならでは」に近いと思うが、値が張るため断念。お土産選びには苦戦した。ほぼ自分のお土産選びですが。

結局この類のものをインドの商人がたくさんおまけしてくれたので、ばらまき用&自分用に買うも、家で紛失してしまい、とても悲しい。(紛失したことに最近気づいた)

この国発祥のブランド、チャールズ&キースの鞄を購入。日本でも買える
現実逃避旅行と言いながらも、物価を見るたびに現実に引き戻され、国をあげてのアメとムチの洗礼をうけたものの、友人との初海外旅行はとても楽しかった。
なにより、いろんな文化、宗教、人種が集まるので、「みんな違う」ことが当たり前でとてもすごしやすく、「ダイバーシティ、多文化共生ってこういうことか」と思う旅だった。
しかし、前回のブログでも紹介したように、シンガポールはとても栄えているし、観光の国なので、「面白みのある旅行」ではなかった。次、海外へ行くときは、どっぷり異文化に浸かりたい。
私は幼いころから外国への興味が高く、トラベル番組や遺産を巡る番組、世界の果てまで行く番組はかなり見ていた。「探検家やミステリーハンターになるのもいいかもしれない」とひそかに思っていたほどだ。生きているうちに、シベリア横断とサバンナでチーターを見る夢は叶えたい。(蘭)