「私たちの力で作ろう」/始まりのウリハッキョ編vol.59 英語教科書編さんの歴史
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「祖国の統一と繁栄に貢献する有能な人材に育つ生徒たちに、国際的な交流と協調の手段となる英語の基礎的な知識と技能を与える」―学友書房が発行する教員向けの参考書(2003年版)は民族教育における英語教育の使命をこのように定めている。教科書はその教科の教育内容と方法を端的に見せてくれる。長く朝鮮学校の英語教育に携わった2人の専門家の証言を通じて、英語教科書編さんの歴史をたどった。
60年代後半に初の独自教科書
朝鮮学校の英語教科書編さんにおける最大の功労者を挙げるとすれば、朝鮮大学校外国語学部の初代学部長(1974~91)、朝大図書館長などを歴任した梁南仁さん(88)になるだろうか。
梁さんは53年に東洋大学を卒業後、中部朝鮮中高等学校(愛知朝鮮中高級学校の前身)で2年間教壇に立った。その後、京都大学大学院に進み、英国の作家フィールディングの研究で修士号を取得。61年、朝大に英語教員として赴任した。
当時は外国語学部も、その前身である文学部外国語科もなかった時代。学内に英語教員は梁さん一人だった。外国語科目はロシア語と英語があったが、ロシア語を選択する学生が圧倒的に多く、学内で英語に対する関心は高くなかった。
梁さんが愛知の朝鮮学校に勤めていた時は、“Jack and Betty”という日本学校で用いられていた教材が使われていた。高級部では、学校ごとに教材を選んで授業を行っており、統一的な教科書はなかった。50年代末からは当時のソ連の教科書を翻訳し、学友書房で印刷して使っていた。「内容的にあまりいいものではなかった」と梁さんは振り返る。
梁さんは65年の第1回改編時から英語教科書の編さんに携わってきた。当時の総聯中央教育局長の「私たちにも独自の英語教科書が必要だ」という訴えに心を動かされたという。初の独自教材編さんは宋都憲さん(84、のちの学友書房副社長)ら当時の東京中高の教員2人と梁さんの3人で始まった。その結果、66~68年にかけて中級部1~3年の教科書が、69年には高級部の教科書が発刊された。
60年代、70年代は学友書房に英語教材編さんの専門家がいなかったこともあり、梁さんは半ば学友書房の社員のように仕事をしたという。教科書編さんの期間は、日中は大学の業務をこなし、夕方から学友書房に出勤して泊りがけで仕事をして、翌日、大学に出勤するという生活を続けた。
4技能重視の新たな流れ
梁さんから10年ほど遅れて、1970年代から英語教科書編さんに携わったのが元学友書房の金慶淑さん(76)だ。
日本の高校から朝大政治経済学部を経て、66年から78年まで東京中高で英語教員を務めた金さん。「60年代は外国語と言えばロシア語優先だった時代。英語は敵性国家の言語ということで、生徒たちのモチベーションも低かった。英語教員として肩身の狭い思いもしました」。
金さんは東京中高教員時代、1976―77年の教科書改編事業に招集されている。当時の英語教育は文法や翻訳重視。金さんは「英語教育はこのままでいいのかと疑問に思うこともあった」という。「英語教育の発展のためには自分自身が英語をもっと勉強しなくてはいけない」と78年から80年まで英国に留学。その過程で「コミュニケーションの手段としての英語を教えなくてはいけない」という思いを強くした。同時に、教材の重要性も痛感したという。
留学を終えた金さんは、英語教材づくりに携わりたいという思いを胸に81年、学友書房に入った。
「70年代の時点でも英語教科書の文章は文語調で堅苦しく、内容も日本で生まれ育った生徒たちの心理的特性にそぐわない点があった」と金さんは振り返る。しかしこれは朝鮮学校に限ったことではなく、当時は日本学校でも外国語教育は古い教材を使った文法、翻訳重視のものだった。
そんな中、80年代に入って英語教育に新たな風が吹き始めた。読む・聞く・書く・話すという4技能を重視するようになった。朝鮮学校の英語教育の現場でも、民族的主体性の確立という大原則を守りながら、新たな教科書作りの方向性を定めていった。
81〜82年にかけて教科書の全面改編が行われ、83~84年にかけて中・高の新しい教科書が出版された。70年代までの英語教育が英語の知識を教えることに目的を置いたとすれば、80年代以降は英語を実際に使いこなせるようにすることに方向転換。教材の側面から見ると、これまでの「教科書を教える」から「教科書で教える」に変わった。金さんは80年代の改編の意義をこのように整理する。生徒たちを積極的な英語発信者として育てる方向で対話文や口語的な表現が多く取り入れられ、挿絵や写真も増えた。日本の学習指導要領を参考にし、それに依拠するようになったのもこの時期からだ。
「これが私の使命」
編さん委員会は金さんと梁さんの二人が中心となり、そのほかに朝大や中・高級学校の教員が招集された。80年代を例に挙げると、外国語学部からは辛成芳さん、呉象元さん(ともに故人)などそうそうたる面々が集まった。改編の方向性が策定されると、教材のテーマや具体的な内容を決めていき、個々のメンバーに仕事が割り振られていった。夏休みには2~3週間の合宿が組まれた。避暑地の宿泊施設も利用したが、長野朝鮮初中級学校もよく利用したという。
金さんも、ネイティブスピーカーの校閲を受けたり、掲載する写真を入手するため駐日大使館を訪ねたりと、専門家として編さん事業に取り組んだ。「苦労は多かったけど、やりがいも大きかった。ここで鍛えられた先生方が軸になって、朝鮮学校の英語教育が発展していきました」。
1965年以降、英語教科書は大きく10年ごとに改編されてきた。80年代の改編以降、技能教育としての側面が強調されるが、朝鮮学校における英語教育は英会話学校や学習塾で行うものと決して同じではないと梁さんは強調する。「英語教科書編さんは一つの教科にとどまる活動ではありません。外国語教育が崩れれば民族教育全般が崩れていくという切迫感や責任感を持って取り組んでいました」。
梁さんが教科書編さんに携わった期間は40年を超える。「将来は学者になって文化史の研究をしようと考えていたのですが、朝大に入って、『私たちの力で教科書を作ろう』という言葉を聞いて、これが私の使命だと感じました」。
一方、金さんも80年代、90年代、2000年代と教科書編さんに携わった。
教材作成者は机に座って書くだけが仕事ではない。常に現場に出て実情を把握しなくてはいけない―。二人とも共通して全国の教育現場を回った経験を語っていたのが印象的だった。
一線を退いたが、金さんは「現場の若い先生方をサポートして、今後も英語教育の発展に寄与したい」と話した。