いつか会おう―絵の交流で未来描く/南北コリアと日本のともだち展が20年
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朝鮮からメッセージと絵が届く
朝鮮半島、日本、中国の子どもたちの絵を一堂に展示し、互いにメッセージを送りあう「南北コリアと日本のともだち展」が6月4~6日、東京都千代田区で行われた。
展示は今年で20回目を迎え、今回のテーマは「わたしがつくる未来」。コロナ禍の中で郵便物を送ることすら難しいなか、朝鮮民主主義人民共和国から15枚、韓国から10枚、中国から9枚、日本から26枚の絵が届いた。
朝鮮からは、長らく交流を続ける平壌市大同江区域ルンラ小学校の校長や、ともだち展に参加し、今は大学生に成長した学生からメッセージが届いていた。
また、共同制作「空にとどけるみんなのねがい」を完成させるため、4国から色とりどりの旗373枚が届き、ギャラリーの天井を鮮やかに埋め尽くした。20年を振り返る展示や、過去に出展した子どもたちからのメッセージも届き、まさに盛りだくさんの展示内容だった。
5日、ギャラリートークを前にあいさつをした、ともだち展実行委員長の山本俊正さんは、
「1999年、韓国のオリニオッケドンムとの運命の出会いがありました。オッケドンムが自画像とメッセージの交換をしていることを知り、日朝でも同じような取り組みができるのではないかと始めました。
ともだち展は、冷戦状態が続く東アジアの歴史の中で、平和構築の小さな市民の試みとして信頼の醸成、対話の継続性という有効な価値を示し続けてきました。朝鮮半島が平和になり南北が統一されるとき、日本と朝鮮との国交が回復されるとき、ともだち展のこの歴史は、未来を担う子どもたちの絆のなかで、さらに輝きを増していくだろうと確信しています」と20年の活動を振り返った。
ギャラリートーク「ともだち展の20年」では、「東アジアの平和のつくりかた~絵本のちから~」と題して絵本作家の浜田桂子さんが朝鮮の子どもとの触れあいを語った。
2010、13年に共同制作に関わった浜田さんは、05年から06年にかけて日本で過去の歴史をあいまいにした教科書が検定を通った時、「私たちは、ただでさえ日本の歴史を伝えられていない。このままこういう状況が進んでいければ、近隣の国と信頼をどうやって築いていくのだろう」と危機感を持ったことを伝えた。同じ危機感を持った田島征三さんら、日本の絵本作家たちとソウルや中国・南京を訪れ、現地の作家たちと交流し、日本、韓国、中国の3国での絵本の共同出版を決め、何年にもわたり意見交換をするなか、大切な指摘を受けたという。
「絵本は下書き文を作りますが、戦争の場面が出てきます。私は平和を、戦争をする飛行機が飛んでこない、爆弾が空から落ちてこない。家や町が破壊されないこと…と描きました。この3つの表現について痛烈な批判を受けました。浜田さんは無意識かもしれないが、日本の独特なもの。もう二度とあんなひどいことはしない、苦しみを与えない―そういう意識が希薄だと。そういう言われてよくよく自分の心を考えてみると、知識と感覚には距離がある。平和、戦争、原爆は嫌だ。そういう風に考えてしまう自分がそこにありました。
どうすればいいかということで、子どもを主体にした本なので、『戦争をする大人にはならない』という思いを込めました。爆弾なんか落とさない、という言葉に変えていった。私にとっては大きな指摘でした」
浜田さんは、2010年、13年の夏に訪朝した体験も生き生きと伝えていた。
「朝鮮戦争ですべて街が瓦礫になったのに、朝鮮の都市はきれいで緑が多かった。とりわけ、印象深かったのが、朝鮮半島をつないだ地図に『朝鮮はひとつだ』と書かれたプラカードが多かったこと。これほど統一を願っていることを初めて知りました。皆さんが大歓迎してくれた時に、やはりともだち展が築いてこられた信頼があるから、にこやかに迎えてくれたのだと。10年間の蓄積を感じました
2010年のワークショップでは、それぞれに出発した3つの道が合流して、いろんな世界をくぐりぬけて、最後にお祭り広場に辿り着く絵を3国の子どもたちで完成させました。平壌の子どもの絵の印象は、お祭り広場に家族と一緒に行く子が多かったこと。自分の大好きな家族と何人もで。胸打たれました。韓国の絵本『非武装地帯に春が来れば』を食い入るように見ていた様子、子どもたちが絵本を読んで嬉しそうな笑顔が大人にも広がっていく。絵本の力はすごいと思いました」
2部「ともだち展の20年を振り返る」
2部「ともだち展の20年をふりかえる」では、金敬黙さん(早稲田大学教員)の司会のもと、チェ・ヘギョンさん(オリニオッケドンム事務総長)、金聖蘭さん(朝鮮学校美術教員)、筒井由紀子・ともだち展実行委員会事務局長が日本と朝鮮半島を行き来しながら、絵の交流で、平和を目指してきた市民交流を振り返った。
金聖蘭さんは、「20年を振り返ると、日本の人が平和や統一に向けて、子どもたちに働きかけていこうという視点が刺激的でした。2002年9月に朝鮮が拉致を認めた後、日本のメディアのバッシングがあり、苦しい時期でした。その時期に絵画展をしたり、未来を一緒に考えていく人とたくさん語り合えたからこそ、在日朝鮮人として、私はどう生きていくのか考えさせられ、20年間一生懸命に進んでいくことができました」と振り返った。
美術教員の金さんが印象深いのは、「2005年に初めて、3つの地域の子どもたちが共同で作品を作ったこと」だという。
「平壌の子どもが『絵になって日本の友だちに会えるよ』という言葉に喜んでくれ、等身大の絵をがんばって描いてくれた。泣きながら絵を筒に入れ日本に持ち帰ったことを思い出します。
交流では、絵だけではなくメッセージも伝えあいます。交流した子どもたちが大人になって出会う状況ができていることに、合同作品のすばらしさがあると思う。作っても楽しい、出来上がっても楽しい。自分たちがしたことが、どんな結果になったのかまで、子どもたちに届ける。子どもたちが持っているものを、ひとつの場でつながるように大人が考えてきました」
筒井由紀子さんは、東アジアや日朝の間で政治的に難しいことがたくさんあるなかでも、朝鮮半島の南北、日本の市民たちが協働で乗りこえ、絵の交流が実現されてきた意義を語った。
「メディアの朝鮮取材が実現し、日本国内にも伝えることができました。
何より、一つひとつの絵に子どもの心がこもっている。1年1年、いろんな人が集まって平壌、ソウル、朝鮮学校、日本の子どもたちが作り上げてきた。同じ1年はない。それぞれのともだち展が積み上げられて今日がある。みんながやりたいことを、頼んだこと以上に思ってやってくれました。だからこそ、いろんなことがあっても乗り越えることができました」
チェ・ヘギョンさんは、「20年の展示をしながら、変化していないと感じたのは、大人ほど、子どもは歪曲された視点、偏見はないということ。子どもの持つ力、絵の力を感じた。子どもたちは可能性を持っています」と期待を込めた。(瑛)