継がれる伝統と変わりゆく役割/始まりのウリハッキョ編vol.61 朝鮮大学校プンムルノリクラブ 「セマチ」
広告
朝鮮大学校(東京都小平市)で発足されたプンムルノリクラブ「セマチ」。経験者・未経験者問わず多くの学生たちが民族打楽器に触れ、演奏を楽しむ場として発展してきた。わずか数人の同好会からスタートし、約20年の歴史をつないできたセマチの始まりを取材した。
夜な夜な聞こえる
チャンゴの音
1998年に朝鮮大学校へ入学した姜志煥さん(41)。大学生活にも慣れてきたある日の夜、どこからか音が聴こえてくることに気がついた。音を辿り講堂に行きついた姜さんが目にしたのは、1学年上の先輩たち5人がこそこそと集まってチャンゴの練習をしている姿だった。
秘密の集団を率いていたのは、当時2年の曺秀鎬さん(42)だ。曺さんと民族楽器の初めての出会いは中3の時。長野朝鮮初中級学校の選抜メンバーとして、「ソルマジ」(※)に参加するため訪朝。「ウリナラで2ヵ月くらい民族楽器と触れる生活をして、他校から来た友人たちとも出会って。だんだんと民族楽器をやってみたいという気持ちになりました」。
情熱は冷めず、実家に戻ったあと自身のオモニ・朴美好さん(72)に「東京朝高へ行きたい、楽器がしたい」と頼み込んだ。長野は学区上、寄宿舎のある愛知朝鮮中高級学校に進学するのが一般的である。
「いま自分も親だから分かるけど、朝鮮学校へ送ること自体すごく大変なこと。そんな中、子どもに選択させて好きなことをやらせてくれたオモニには感謝しかありません」と曺さんは語る。
念願かなって東京朝鮮中高級学校へ進学した曺さんは、民族管弦楽部(以下、民管)に所属しチャンセナプを受け持つ。3年間ひたすら練習に明け暮れ、朝大進学後も迷うことなく民管に入部した。
初めての出番は1分間
「大学内で夜会がある。チャンゴを使って盛り上げてくれないか」
朝大委員会に所属する友人から曺さんが依頼を受けたのは大学2年に上がりしばらく経った頃。「民管に入ってるんだからチャンゴもできるだろう、くらいの認識だったんだと思います」と笑う。
だがやる気はあった。同級生の中からメンバーを探し、4人が集まった。「やりたいけど、きっかけがなかったと。じゃあやってみようかと寄せ集めの古い楽器で練習を始めました」。曺さんも民族打楽器はほぼ初心者。経験がある朝大の庶務課職員に習いながら、見よう見まねで演奏を形にしていった。姜さんの耳に夜な夜な届いていたのはこの音だったのだ。
「いま考えたら相当ぶっ飛んでいたなと思うんですが、ほぼ面識もないのに『自分も入れて下さい』と頼みにいって」とは姜さんの回想。
高3の時、広島朝鮮初中高級学校の学校行事で男性舞踊メンバーに抜擢された経験から、朝鮮の文化芸術に興味を持ったという姜さん。「それまでサッカーしかしてこなかったけど、朝大では機会があれば民族楽器をしたいなという気持ちがあったんです」。
しかし、先輩たちからは相手にされない。「5回くらい通いましたかね。音が鳴ったらそこに行って見学して。そのうち『やるか?』という感じになり、ようやく参加できるようになりました」と振り返る。
「基礎訓練をしてやっとチャンゴを打てるようになって。だんだん上達していく自分を実感できると嬉しかったですね」
「本番自体は1分くらいで、『あれ、それだけ?』というような反応もありましたが、自分たちはすごく楽しくて。終わったあとも定期的にやりたいと声が上がったので、そのメンバーで練習を続けることにしたんです」(曺さん)
位置づけはあくまでも同好会。民管に所属していた曺さんはじめ、メンバーは各々が別のクラブ活動をしていたため、主な練習時間は夜だった。
勉強が終わると、講堂に忍び込んで練習開始。教員に見つかって怒られることも日常茶飯事だった。
その後も6人でカセットテープを聞いて必死に各パートを耳コピしながら練習したり、民族打楽器を扱ったことのある職員や教員を何度も訪ねては技術のアドバイスをもらった。姜さんは複数人で呼吸と音をシンクロさせ、一つの演奏を作り上げていく楽しさを肌で感じたという。
そして翌99年、大学内で舞台に立つ機会を得る。「確か年明け一発目の行事。幕が開くと自分たち6人が並んでいて。皆そういうのをあまり見たことがないから最初は笑っているんです。でも演奏が終わったら拍手喝采だった」と曺さん。
その公演を機に入部希望者が続々と現れたが、メンバーたちの「自分たちだけでやろう」との意向から、しばらくは厳しい審査基準を設け、新入部員の受け入れを制限していたそうだ。
数万円のチャンゴも自腹で
大学内での公演のあと、内外で少しずつ演奏の機会が増えていった。同胞たちの集い、朝鮮学校の行事のほか、日本の大学の学園祭に出演することも。対外公演の要を担っていた朝大舞踊部とともに派遣されることも多かった。
メンバーたちの技術がついてくると、演目を増やすために新しい曲を練習したり、それに伴って金剛山歌劇団などのプロ演奏家にも学びに行った。長期休暇はバイトに費やし、楽器も自分たちで一つずつ揃えていったそうだ。「都内に、韓国から仕入れた民族打楽器を売るお店もあったんです。高かったけどね」。
この頃、同好会の名前を「セマチ」に。「名前を考えるために、チャンダンの辞書のようなものでいろいろとヒントを探していたんです。そこで目に入ったのが『セマチ』。慶尚道の方言で、ウリナラで言う陽山道チャンダンのこと。ノドゥルカンビョンとか、同胞なら誰でも聞いたことのある有名な曲でよく使われています」。同胞に愛される集団になっていこうとの願いを込めて、曺さんが名づけたものだ。
この年、初めての単独公演「樂」を企画。朝大は日本各地からいろんな才能が集まってくる「人材の宝庫」だという意識があった曺さんは、当時、大学内で輝いていた逸材にも声をかけ、舞台を演出した。現在、歌手ルンヒャンとして活躍する李綾香さんもこの公演に参加している。本番は大好評。セマチの知名度をさらに押し上げ、ふたたび学内で注目を集めた。
同胞たちに愛される集団として
曺さんたちが4年、姜さんが3年の2000年。それまでもよく目をかけてくれていた教員の助言があり、セマチは朝大の正式クラブに登録される。裾野も広げ、卒業直前の「樂」公演には「50人くらいが出演したんじゃないのかな」(曺さん)。
正式クラブ化することで後代教育につながる。曺さんは、そのような新たな意義にも気がついた。「社会に出て、たまに『朝大でセマチやってました』と聞くと嬉しいですね。自分たちの代に発足したとは恥ずかしいから言わないけど」。
曺さんらが卒業したあと、リーダーを任されたのは姜さん。「民族楽器のよさを広げる伝道師としての役割も担いつつあったのでプレッシャーもありましたが、どう形を残していくか、長期的な目線でシステムづくりに尽力した期間でした」。
セマチにはその後、長野初中で民族打楽器を学んだ卒業生たちが数多く入部。レベルの底上げに大きく尽力した。
現在、セマチの顧問を務める金哲秀さん(55、朝鮮大学校朝鮮問題研究センター 副センター長)は、「小平市民まつりへの参加など、朝鮮学校を地域社会にアピールするためにも一役買っている。創部当初に比べ、より一層発展した役割を担っていると思います」と話す。
(※)ソルマジ~毎年正月に朝鮮民主主義人民共和国で行われる「설맞이공연(迎春公演)」のこと。日本各地の朝鮮学校から選抜された児童・生徒たちも、「在日朝鮮学生少年芸術団」として同公演に出演する。