田中ひろみさんが亡くなった
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「朝鮮学校を支える宝塚市民の会」の田中ひろみさんが亡くなった。
7月28日、「日本軍『慰安婦』被害女性と歩む大阪・神戸・阪神連絡会」による宝塚駅前での街頭宣伝参加中に脳内出血で倒れ病院に搬送された、今も意識不明の状態が続いている―。今月初めにそんなショッキングな知らせがFacebookのタイムラインに流れてきた。その後、懸命の治療の甲斐もなく、8月19日に帰らぬ人となったという。
田中さんは兵庫県宝塚地域を拠点に長く朝鮮学校支援活動に携わり、大阪府庁前で2012年から行われている「火曜日行動」にも欠かさず参加されていた。ご家族や運動仲間、地元の人びとの悲しみはいかばかりだろう。
個人的に親しい付き合いがあったわけではないが、これまで幾度となく取材現場でお見かけし、原稿を執筆していただいたり、地域での草の根活動の情報を寄せていただくなど本誌イオの編集にもさまざまな形でご協力いただいた。そんな方の突然の訃報に接し、心臓をぎゅっとわしづかみされたように胸が苦しくなった。
筆者にとってもっとも印象深いのは、福島朝鮮初中級学校(福島県郡山市)の生徒を対象に2013年から毎年行われきた宝塚保養キャンプのこと。2011年3月の東日本大震災で被災した朝鮮学校支援のために奔走する姿を拝見し、その行動力に感銘を受けた。
本誌2021年3月号に田中さんの文章が載っている。特集「明日へつなげる―3.11の記憶」に寄せていただいた福島朝鮮学校保養キャンプの記事だ。これが本誌への最後の寄稿となった。記事全文をここに転載し、故人への手向けとしたい。
つつしんでご冥福をお祈りいたします。(相)
みんなが待ってるよ!
福島朝鮮学校保養キャンプin宝塚
田中ひろみ●「朝鮮学校を支える宝塚市民の会」
兵庫県宝塚市にある大林寺では2012年から、東日本大震災で被災した福島県に暮らす子どもたちのための保養キャンプが始まりました。しかし、福島には朝鮮学校もあります。日本の子どもだけでなく、朝鮮学校の子どもたちにも目いっぱいキャンプを楽しんで心と体を癒してほしい…。そんな思いから、私たち「朝鮮学校を支える宝塚市民の会」は働きかけをはじめました。
福島朝鮮初中級学校にも直接足を運び、保養キャンプへのお誘いを重ね、翌13年2月、学校の年間スケジュールに日程が組み込まれました。私たちはすぐに、普段からお付き合いのある総聯宝塚支部や女性同盟、朝鮮学校の人々、日本の市民団体や個人を訪ね、協力の要請やカンパをお願いしました。宝塚市の後援も募りました。
その結果、カンパをお寄せ下さった団体は約30、ボランティアを申し出て下さった方が約70人。予想以上にたくさんの方々が気持ちをともにして下さり、13年9月19〜22日にかけて、初めての「福島朝鮮学校保養キャンプin宝塚」が実現することになったのです。
集合場所の伊丹空港。「반갑습니다(お会いできてうれしいです)」と書かれた横断幕を広げ、福島ハッキョに通う9人の子どもたちと5人の先生方をお迎えしました。宿泊地である大林寺に到着してお昼ご飯を食べたら、さっそく尼崎朝鮮初中級学校と伊丹朝鮮初級学校の子どもたちと交流会。
楽しい時間の裏では、支える会やオモニ会をはじめ、大勢のボランティアが駆けつけ、夕食歓迎会の準備にいそしんでいました。キムパプ、えびや野菜のジョン、ゆで豚、チャプチェ、棒棒鶏、手羽先、エギホバク鍋、ぶりの煮付け、ウィンナー、インゲンのごまあえ、チジミ、鶏もも肉のみそ漬け焼き、ブロッコリー、ミニトマト、オクラと山芋短冊のあえもの、
白菜キムチとご馳走が並びます!
夕食後もたくさんの人が大林寺を訪れ、賑やかな時間を過ごしました。またこの日、大林寺を訪れた中川智子・宝塚市長は、翌日に一行を市長室にも迎え入れて下さり、改めて歓迎のあいさつを伝えたあと、「災害に遭い、出会う人がいる。今日会えたのも、めぐりあわせだ。困難があるけど大事なのは仲間。みんな元気で、一歩一歩踏みしめて生きてほしい」と
エールを送りました。
思い出を振り返るときりがありません。保養キャンプはその後も毎年行われており、その度に日本人、朝鮮人問わずたくさんの方々が携わっています。心でつながれる関係が広がり続けていることに希望を感じます。
2020年は新型コロナウイルスによって保養キャンプを中止せざるを得ませんでした。子どもたちに会えないことは残念ですが、こうしてイオに取り上げてもらうことで、福島ハッキョを応援する気持ちが、多くの人たちの中でまた生まれてくれたらいいなと思います。