vol.63 課外活動編 駆け抜けた青春時代の証―東京中高の「学校新聞」
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学校創立75周年を迎える今年秋の開館を目標に工事が進められている東京朝鮮中高級学校の沿革室に、1960年代半ばに発行されていた「学校新聞」が当時の生徒から寄贈された。半世紀を経て古くなった紙面から、激動の時代に青春を過ごした朝高生徒たちの息吹が迫ってくる。
朝高委員会直属のクラブ
寄贈主は在日本朝鮮人人権協会顧問の姜惠眞さん(東京朝高16期、74)。1964年4月、大阪朝鮮高級学校から東京朝鮮中高級学校高級部2年に編入してきた姜さんは、学内の生徒組織である在日本朝鮮青年同盟(朝青)東京朝高委員会の宣伝部の役職に就きながら、東京朝高新聞部で「学校新聞」の編集・発行に携わった。
宣伝部の主な活動としては、「벽보(壁報)」と呼ばれる壁新聞的な掲示物の制作がある。姜さんもそこから自然と新聞製作にも携わるようになっていった。
当時、新聞部はサッカー部や舞踊部などほかの一般的な運動・芸術系クラブとは違い、朝高委員会の直属という位置づけだった。「学校新聞」の内容を見ると、実質的に朝青朝高委員会の機関紙的な役割を果たしている。朝高委員会直属のクラブとしては、ほかにも放送部や写真部などがあった。
ここで歴史を少し振り返る。東京中高における学校新聞のはしりは、壁新聞「白頭山」だとされている。学校創立当初、校内には現在の朝青のような生徒たちの団体が存在しなかった。創立2年後の1948年、学生自治会が結成。「白頭山」はその学生自治会の機関紙的な役割を担った。「当時、学校の名物であり、学生自治会の活動、スポーツや芸術活動での成果、祖国の情勢、在日運動などの記事も掲載した。朝、登校したほとんどの生徒たちは『白頭山』をのぞいて教室に向かった。話題性のある記事は生徒たちが鈴なりになって読んだ」(東京中高公式サイト掲載の沿革史 http://www.t-korean.ed.jp/history.html より)。
「白頭山」掲示板は、朝青朝高委員会の掲示板として、この記事の舞台となる60年代半ばにも存在している。
当時の雰囲気伝える紙面
「学校新聞」にはどのような記事が載っていたのか。姜さんが母校に寄贈した「学校新聞」第9号(65年6月10日付)と第10号(同11月10日)の紙面を見てみよう。
第9号の1面には総聯結成10周年の祝賀記事を掲載。続く2面には、ウリマル(朝鮮語)常用運動や祖国の書籍を読む運動など総聯結成10周年を迎える当時の校内の雰囲気を伝える記事が載っている。4面と5面は見開きで総聯結成10周年に際して行われた集団体操(マスゲーム)「祖国にささげる歌」の特集がインパクト抜群だ。出演者の女子生徒の手記が当日の感動を臨場感たっぷりに伝えている。8面の文芸欄では、祖国の大学生から送られてきた手紙や朝高生徒による読書感想文などが目を引く。
ほかにも、当時のサッカー部の活躍を伝える記事や、日本の高校から転校してきた生徒の手記など幅広い題材で紙面が構成されている。生徒が編集する新聞でありながら、「模範教員集団運動」など教員に関するトピックまでフォローしているのも興味深い。
姜さんによると、当時の部員は5~6人。新聞製作の作業場はもっぱら新聞部の部室だった。「学生の分際で学校に泊まり込んで作業していた」と振り返る。当時はガリ版印刷が主流。今のようにパソコンやDTPなどなく、すべて手作業だった。そのうちガリ版では満足できなくなり、もっと本格的な新聞を作りたいと、当時、新宿区筑土八幡町にあった朝鮮新報社の設備を借りて印刷したという。今回取り上げた第9号、第10号はいずれも朝鮮新報社で印刷されたものだ。「新聞製作が何たるかも知らず、原稿と写真を持っていけば何とかなると思って」。姜さんは当時を振り返って苦笑いを浮かべた。
「ネタ探し」はどうしていたのか。朝高委員会の活動を通じて、校内のさまざまな情報が入ってきた。面白そうなテーマがあれば、当事者に原稿執筆を依頼するか新聞部で直接取材した。「文章執筆能力も今の高校生ほど高くなかった。当時の記事を読み返してみると、恥ずかしいものもたくさんある」と姜さんは話すが、第10号の1面に掲載された主張「民主主義民族教育の神聖な権利を徹底して擁護しよう」は高校生が書いたとは思えない硬派な文章だ。
「祖国にささげる歌」
総聯の結成、祖国朝鮮から送られてきた教育援助費、帰国運動、朝鮮大学校の創立など1950年代半ば以降の大きな出来事を経て、60年代に入ると朝鮮学校に通う児童・生徒たちが劇的に増加し、民族教育は一大昂揚期を迎えた。
1965年4月に入学した高級部18期生は808人。高級部の歴史上、もっとも入学生数が多かったのがこの年だ。67年には高級部の学生数が2000人を超えた。韓日条約反対運動、外国人学校法案など60年代半ば以降、さらに激動の時代へと進んでいく。
姜さんに「学校新聞」編集の過程で印象に残っている紙面について聞くと、マスゲーム「祖国にささげる歌」という答えが返ってきた。5階建て新校舎が竣工した65年の5月28日、総聯結成10周年を祝うマスゲーム「祖国にささげる歌」が駒沢競技場で行われた。朝鮮大学校、東京中高をはじめとする関東地方の朝鮮学校の生徒・学生たち8000人が参加した一大イベント。出演者の中で、半世紀以上が過ぎた今でも強烈な思い出として語り継がれている。
学校新聞の紙面を通じても当時の熱気が伝わってくる。
姜さんは朝高卒業後、朝鮮新報社に入社。その2年後、朝大へ入学し、卒業後、ふたたび新報社で長い記者生活をスタートさせる。これまで朝高時代の学生新聞は捨てられずに取っておいた。「学校新聞は朝高での青春時代そのもの。あの激動の時代を駆け抜けた証でもあるからです」。
東京中高ではこれまで「学校新聞」以外にも、時代ごとにさまざまな発行元がさまざまな新聞を出してきた。姜惠眞さんが保管していた「学校新聞」のバックナンバーは第9号と10号のみ。「学校新聞」の発行がいつから始まり、いつまで続いたのか、現時点では確認できなかった。