呉炳学さんのアトリエにて
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先日、在日朝鮮人1世の画家・呉炳学さんのアトリエを訪ねた。月刊イオの連載「1世の肖像」取材のためだ。
呉さんは1924年1月、平安南道生まれ。植民地期に生まれながらも人生をかけて追い求めたいもの―絵画と出会い、絵を学ぶため1942年に日本へ渡った。
一度は召集令状を受け取るも絵を描くことを諦めず、1945年の解放後は苦難の中でさまざまな人とつながりを持ち、人物、風景、モチーフ画など数多くの作品を描き上げてきた。
今年6月には銀座で「呉炳学 三浦千波展―呉炳学97歳の世界を中心にー」を開催。
しかし展覧会を終えたあと9月に体調を崩し、同6日に肺炎でお亡くなりになった。
ご本人不在のアトリエで、遺された大量の絵画に囲まれながら、呉さんのお弟子さんであり晩年の世話人を務めた三浦千波さんからゆっくり話を聞いた。
まず、建物2階のアトリエに足を踏み入れた瞬間に圧倒された。広い空間の壁いっぱいにかけられた絵、奥の方には重なって立て掛けられた作品がまだまだある。
丁寧に手入れされた大量の絵筆、自由に色をとったパレット。アトリエの中に作られた就寝スペースには、インスピレーションを授けてくれる書籍や写真がぎっしり収まっていた。
圧倒されて言葉が出ない私に、三浦さんは「すべて絵なのよ」と声をかけてほほえんだ。寝ても覚めても絵。呉さんは絵を描くことに人生を捧げていたんだなと肌で感じた。
アトリエの空気もいきいきしているような気がした。それを話すと、「絵が生きているから。呉先生は絵の中にどれだけ自分のエネルギーを込めるかを大事にしていました。だから身体はなくなっても、生命は全体に充満しているんでしょうね」と三浦さん。
頷きながら改めてじっくり絵を眺めてみる。キャンバスの中央に1点、器や花瓶、朝鮮の仮面などが描かれているものが多い。構図は単純だが、見ているとずっと深くまで引き込まれるような奥行きがある。周りに漂う空気すら感じられるようだ。油彩の筆致一つひとつも面白く、不思議と飽きない。
呉さんは6月の展覧会を終えた後も変わらず筆をとり続けたという。7〜8月、体調を崩す直前まで描いていたという絵も出して頂いた。
言葉を失った。それは執着なのか、習慣なのか、抗いだったのか、喜びなのか…。
すると三浦さんが「呉先生、『100歳でどんな絵が出てくるか楽しみなんだ』って言ってたんです。いつも『今の立ち位置から出てくるものを追求したい』って」と教えてくれた。「凄い」以外の言葉が出なかった。
器や仮面といった、朝鮮のモチーフについて描くことについてもお聞きしてみた。
呉さんは、生まれ育った場所をはじめ、自分自身を突き詰めていかなければ何も表現できないとよく仰っていたそうだ。
三浦さんも、「大地に根ざした体験があることは宝物。仮面の舞の絵も、写真ではなく実際に見た記憶が自分の中に入っているから描ける。これが1世の強みなんでしょうね」と話していた。
オモニのお手製冷麺がおいしかったこと、家の庭に同胞たちが集まり踊ったこと…三浦さんは、呉さんが故郷の村の話をよく聞かせてくれたと振り返った。
北と南と日本での個展開催を夢見ていた呉さん。ご自身の作品を所蔵する美術館を作りたい思いもあった。呉さんがお亡くなりになる一週間ほど前、三浦さんがそのことを話すと、「このアトリエを記念館みたいにして、みんなに絵を見てもらえるといいね」と仰ったという。
「植民地、戦後と、ひどい状態から立ち上がってきた絵だから、きっと見る人それぞれに語りかけてくれるというか、大変な時に力をくれると思うんですよね」(三浦さん)
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イオ12月号(11月中旬発売)「1世の肖像」では、アトリエの写真に加え、6月にあった展覧会での写真もいくつか掲載する予定。ぜひ手に取ってみて下さい。(理)