記者のアルバムonline ver.1/那覇の同胞を訪ね
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10月17日から23日まで沖縄出張に行ってきた。
取材対象に恵まれ、那覇から北は国頭郡国頭村まで、そして、2つの離島にも足を運ぶことができた。
これから数回に分けて、その旅路と出会った人々を紹介したいと思う。
初回は、那覇市。
「沖縄に暮らす同胞」というと、真っ先に名があがる2人にお会いすることができた。
まずは、元総聯沖縄県本部活動家の金賢玉さん(79)。
金さんは、1972年の沖縄の本土「復帰」後、在日本朝鮮人総聯合会沖縄県本部の設立を機に、夫の金洙燮さん(2019年逝去)と沖縄へ渡り、沖縄に暮らす在日朝鮮人の権利擁護に取り組んできた。
また1975年に、日本軍性奴隷制被害者の裴奉奇ハルモニと出会い、亡くなるまで寄り添い続けた。
日本軍「慰安婦」とされ、日本軍が勝ってこそ生き延びることができると思っていた裴奉奇ハルモニは、金さん夫婦と出会った当初も日本軍の敗戦を悔やんでいた「皇民化政策の産物」だったという。
その存在が知られるようになり、朝鮮新報に自身の被害を告発(1977年4月23日)するまでの葛藤、金さん夫婦と過ごすなかで、総聯コミュニティ、祖国、分断について知っていき、朝鮮人としての尊厳を回復していったこと―
金さんは、2時間という短い時間に、裴奉奇ハルモニと歩んできた16年間のさまざまな話をしてくださった。思い出話の多さに、その日々がいかに濃密だったかを推し量ることができた。
「私個人が頑張ったからではなく、総聯コミュニティがあったから、裴奉奇ハルモニが沖縄で初めて名乗りでることができ、晩年には尊厳を取り戻し、朝鮮人として生きることができたことを語り継いでほしい。総聯がなければ、私は沖縄に来る理由がなかったし、ハルモニは何も知ることができなかったはずです」と強調していた。
これまで、修学旅行で沖縄を訪れる朝鮮学校の生徒たちに、沖縄についてや、裴奉奇ハルモニについて講演してきた金さん夫婦。昨年はコロナ禍で修学旅行が中止となったが、来年1月に生徒たちが訪れるのを心待ちにしているようだ。「(夫が亡くなったから)今年からは1人で2役しなくてはいけない。どうなるかわからないけど、要求に沿って行いますよ」(金さん)。
また、沖縄国際大学の学生が、「朝鮮に対して、正しい視点を持てていなかった。卒業論文で朝鮮について書きたい」と金さんを訪ねてきたという。
「紹介者が、沖縄本部がなくなったことを知っているかどうかはわからないが、現に私たちがいるからこのような連絡がくる。できることはやりますよ」と、金さん。この2時間、言葉の端々で現役のような気概を感じた。
今回、沖縄で働く同胞青年を取材すること、同胞が経営するお店があることなどを告げると、「そんな同胞がいたんだね。イオさんの役割が重要ですね」と金さん。今出張の責務をずしんと感じた。
同日、沖縄で弁護士として働く白充さん家族、23歳から沖縄に移住した金暎華さん家族と夕飯を共にした。
白さんの妻・李栄淑さんとこの日参加できなかったもう1組の家族は東京朝鮮中高級学校の同級生。数年前にはもう1人同級生がいたということもあり、楽しく沖縄生活を送っているようだ。「東京朝高の同級生で『女盟会』とか言って、よくご飯を食べに行ってました」(李さん)。
また、金さんと以前FC琉球のキャプテンを務めていた朴一圭選手(32、現在サガン鳥栖所属)が同級生ということもあり、朴選手含む同胞選手らと食事をするなど、「ちょこちょこ集まっていた」そうだ。
子どもたちの仲の良さに、家族ぐるみで近く過ごしていることが見て取れる。
実は、趣味で手相占いをしている白さん。「よく当たる」と評判なので、筆者も見てもらった。占いなどの類を全く信じていない筆者だが、当たりすぎていて、崩れ落ちた。この日は終始、手相の話で大盛り上がりだった(笑)。
※その後、ただただ筆者の手相に基づいたエセ占いをやっているので、ご注意ください。
沖縄に来て3日目にして、やっと同胞に出会い、出張の緊張がフッと解けた日だった。(蘭)
アメバブログ”かっちんブログ「堅忍不抜」”の記事から来ました。
金賢玉さんの夫、金洙燮さんとは面識があり、山口県から沖縄県本部に入ったように記憶します。半世紀も前の記憶であやふやさを感じながらも懐かしく、また数か月前、孫が表紙を飾った事も有ってコメントしました。