数珠つなぎの言葉
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雑誌の編集をしていると毎日まとまった量の文章を読む。自分が編集を担当する外部筆者の原稿、編集部メンバーが書いた記事の校正紙チェック、取材に関する参考書籍や資料、などなど…。
今年もたくさんの文章に触れてきたが、特に衝撃を受け、忘れられないものがある。フリージャーナリスト・中村一成さんがイオに寄せて下さった連載記事「この倫理なき社会で」(月刊イオ9月号に掲載)だ。
記事は、大手不動産会社「フジ住宅」のパート社員であり在日3世の女性が、社内でヘイト文書を配られるなどのレイシャルハラスメントを受けたとして創業者会長と同社を訴えた裁判について取り上げている。以下、少し長いが一部を引用したい。
高裁の尋問で被告側が出してきた「証人」は、朝鮮ルーツで入社後に日本国籍を取得した男性社員2人だった。履歴書に韓国籍と書いて採用されたことや、会長の社員への気遣いなどを礼賛、差別のない素晴らしい会社とし、配布文書は特定個人を攻撃しておらず、不快、差別と感じたことはないと主張して謝意すら述べた。
…(中略)…
何をもってこの2人は、今も不安と孤独を強いられている彼女の「痛み」を遮断したのだろうか。そしてこの構図を作り出した者たちの卑劣である。自らが被告となった法廷で朝鮮ルーツの男性社員に隷属度を競い合わせ、彼らに同じルーツを持つ非正規の女性を貶めさせる。恥を知らないのか。
…(中略)…
「なんて、私たちは……なんて酷いことをさせられているんだろうと、悲しかった」。発話ボタンを押されたように、会長と会社への忠誠をアピールした彼らと自分との「闘い」を彼女はこう振り返った。
書かれている状況が恐ろしく、読み進めながら胸がぞわっとした。こんな風に向かい合わされている中でも「私たち」という言葉を使った原告女性にまたハッとさせられ、痛々しさに泣きそうになった。このショックをうまく言葉にできなかった。ただただ「忘れられない文章」として自分の中に記憶されていた。
しかし先日、脈絡なく手に取った本を読んでいる時に上記の文章に対応するような内容を見つけて小さく驚いた。文学者・荒井裕樹さん著『まとまらない言葉を生きる』である(月刊イオ2022年1月号の書評欄で紹介します)。
荒井裕樹さんは障害者やハンセン病患者といった被抑圧者の自己表現活動について研究しているという。社会に想定されていない人々や、ないことにされてしまう人々から受け取った言葉のバトンに自身の気づきをのせ、しなやかに綴ったエッセイが本書だ。以下、引用。
強権的で抑圧的な社会というのは、いくつかの段階がある。
まずは、だれかに対して「役に立たないという烙印」を押すことをためらわなくなる。
次に、そうした人たちを迫害して、排除して、黙らせる。
黙らせたところで、今度は逆に語らせる。
「こうしたことを言えば、仲間として認めてやらなくもないんだけど」という具合に、「強制」することなく、あくまで「自発的」に語らせる。
こうして「強制的に語らせた人」の責任は問われることなく、「自発的に語ってしまった人」だけが傷ついていく。
これはハンセン病患者についての文脈の中で書かれた言葉だが、上のフジ住宅裁判の文章に差し込んでもなんら違和感なく感じられる。中村さんの文章を読んで感覚的な感想を持て余しているだけだったところに、“考えるための枠組み”というか、もう一歩、次の足場を作ってくれたように受け取った。
こういう、遠い所にある言葉同士が自分の中でつながったり、対応してくるという体験を最近よくする。問題意識を持つも、それ以上は考えを深められず頭のどこかで眠っている事柄があって、関連する言葉に触れた時に数珠のように糸が通り、「ピン!」と引っ張られるような感覚だ。
ちょうど昨日も、雑誌『ku:nel』が映画と本の特集をしていたため何気なくページをめくっていたら『黒い皮膚・白い仮面』という本のタイトルと、“名誉フランス人を目指した著者が、「同胞の黒人を差別してしまった」という痛恨の念から、差別の問題に鋭く切り込んだ名著”とのあらすじが目に入った。こちらも気になる。2022年新年号の締切も無事に終わったので、ぜひ読んでみよう。(理)