学ぶのは「失敗しない」ため?
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先日ネットサーフィンをしていて、たまたまこの画像が目に入った。
3月中旬に発売される新刊のようだ。
悪気はなかったでは済まされない時代です
現役新聞記者たちが自省の念を込めて贈る「気づきの書」。
書籍紹介ページにはそう書かれている。咄嗟に(読みたい)と思ったが、改めてタイトルに目を通して、ふと疑問がわいた。
学ぶのは「失敗しない」ためなのか?
そもそも、「失敗しない」の主語はなんなのだろう。人間関係? 信頼を得ること? この本に限っていえば、現役の記者の方々が手がけたということで、表現や言葉選びのことだろう。
私も日常で、あらゆる分野に関する無知な言葉、配慮のない言葉、偏見を助長する言葉をつい言ってしまっていることがあると思う。
知らない言葉や無自覚な構造について学びたいという思いはあるが、それは他人を差別したくないからであり、偏見の助長に加担したくないからであって、失敗したくないからではない。
まあ、大きな意味では同じことを言っている(帯の一番下にも書かれている)のだろうし、揚げ足取りかな…とも考えたが、それでも「失敗しないため」というフレーズが頭に残った。
あるいは、より広範な人に届けるために、あえて「差別しないための」といった直接的な表現を避けたのかもしれない。
「自分は差別していない」「そんな意図はない」と瞬発的に反論する人にこそ手に取ってもらいたいだろうから、入り口となるタイトル部分では、人権的なものではなく、少しビジネス書的なワードを選んだのかもしれない。
近年、新聞や雑誌の内容、テレビやSNSでの発言が、個人・公人問わず大きく取り沙汰されることが多くなった。明確な差別発言にあたるものはもちろん、特定の属性の人たちへの配慮が足りない言葉選びがされている場合にもたくさんの指摘が寄せられる。
周りはその現象を「炎上」と呼び、また指摘された当事者や媒体はほとんどの場合、謝罪する。しかし、まさに「失敗してしまった」というそのことに対して謝罪しているようなものも少なくない(多くの方々を不快にしてしまい…というような)。
つまり、たくさんのユーザーに指摘された現象を「失敗」と捉え、差別や偏見を助長したという根本的な自省に結びつかないことも、やはりあるのではないかということだ。
決してこの本にケチをつけたいのではなく(そう見えるだろうか…)、自分が表現と向き合う時には、こういう姿勢を忘れてはいけないなと思った次第である。(理)
すてきなコラム?をありがとうございます。
心から差別したくないと思ってる記者の言葉を読めて幸せです。