「朝青委員長」を見送りながら
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9月19日、長年ともに働いた同僚の先輩を亡くしました。今年の初めに病に倒れ、闘病を続けていた7つ上の先輩でした。入社したころは、朝鮮新報社の朝青委員長、100人に登る若手を束ねていました。
20代の頃は、よく飲みにもいき、たくさん話をしました。
私が朝鮮新報からイオ編集部に配属されてからは、イオの広告担当、近年は会社の総務担当だったので、年に数回、イオ編集部を運営するうえでの悩みや将来について話を聞いてもらうこともありました。
短い言葉でも、人の心をキャッチする、そんな力を持った人でした。
記者出身だった先輩は、時に後輩記者たちが書いた文章を読んだ後、「現場に行って記事を書くことを怠ってほしくない」と、怒りをあらわにすることもありました。
地方から寄せられた、厳しい意見を聞かせてくれたことも、大切な思い出です。
記者は、現場に取材に行き、記事を書く―。それが出版物になり、読者の手元に届きます。
「日向」にいるのが記者のようですが、購読料や広告を集める人といった「縁の下の力持ち」がいなければ、私たちの仕事は成り立ちません。
先輩は、新聞や雑誌の購読料を集めながら、私たちに届かない、「声にならない声」をたくさん聞いていたことでしょう。編集部に言いたいことも多いのでは?思い、何度か「聞かせてほしい」と伝えましたが、そのことを口にしたことは数回だけ。心に秘め、自身が背負うことと思っているようでした。
亡くなったのは誕生日の翌日。朝鮮新報社一筋の人生で、友人も多かったPさん。見送る場には、遠方から訪れた元同僚たちの姿がありました。
病気がわかった後、30代から子育てと仕事に忙しかった私に、「そろそろ時間ができただろう、一杯飲みにいこう」と声をかけてくれましたが、それも叶わなかった。
亡くなった翌日、元同僚から一枚の写真が送られてきました。神楽坂に会社があった頃の行きつけの居酒屋での一枚。20人ほどの元OB,OGに囲まれ、楽しそうなPさんの姿がありました。
また一人、会社の未来を語れる人がいなくなってしまった。空いたデスクを見ながら、ただただ寂しさが押しよせてきます。(瑛)