“接続”するための言葉
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(実直すぎるんじゃないか)、ふとそんな言葉が浮かんだ。去る日曜日、「反差別相模原市民ネットワーク」という市民団体が行った署名活動のようすを取材している最中に感じたことだった。
そこに集った方たちは、年内に制定予定の「(仮称)相模原市人権尊重のまちづくり条例」を、より先進的な内容にするよう市長に求めるための署名を集めていた。
5〜6人の方が、プラカードを掲げたりチラシを配ったりして道行く人に呼びかける。一人の方はマイクを持ち、2時間ずっとスピーチをしていた。
—ヘイトスピーチをご存じでしょうか。在日外国人に対して、「日本から出て行け、○○人は死ね、殺せ」。そうした差別的な言動を行うのがヘイトスピーチです。…
これまでも署名活動の場をいろいろと見てきたが、個人的な印象として、「差別」という言葉を忌避する空気がどんどん強まってきているのでは、と感じた。
意識して避けるというよりは、「差別」という言葉を目にしたり聞いたりした瞬間に、自分には関係のないことだと無意識に判断してしまうというのが近いだろうか。その途端にまったく声が届かなくなってしまう。そんな光景を見ながら、冒頭の思いとともに(不通)という言葉も浮かんだ。
呼びかける側は真っ当なことを言っているし、問題を知らない人にもできるだけ丁寧に説明しようと努めている。しかしその説明に入る前に、「差別」という言葉が多くの人の耳を塞いでしまっている(あくまで個人の印象だが)。
そんな中でも、30代くらいの女性がチラシを受け取る場面があった。目で追うと、一度立ち止まって内容を読み込んでいる。気になって声をかけてみた。
「どうしてチラシを受け取ろうと思ったんですか?」
「私は福祉の仕事をしていて、やまゆり園のこと(障害者差別についての内容)も入っていたので」
「この中で、在日コリアンへのヘイトスピーチについても書かれていますが、そうした問題について意識したことはありますか? 過去にどこかで見たりとか」
「いえ、気づかなかったですね」
その後も少し聞いたところ、在日コリアンへの関心は薄いように思われた。その方は「障害者」という言葉が気になって足を止めたのだ。
この会話を通して、(フックがたくさん必要なんだな)という実感がわいた。
「差別」「ヘイトスピーチ」「人権」、そうした言葉は、社会問題について意識のある人なら拾ってくれるかもしれないが、それ以外のマジョリティには、もう直では届かないのかもしれない。
いろいろな立場の人に届く言葉をもっと持ち合わせていかなければいけない。そうした“接続するための言葉”が必要だ。
振り返ると、状況を動かす発端にはいつも個人の語りがある。生活の中で得た実感、共感があるような語りが(もちろん、被害当事者だけがそれを負ってもいけない)。そこには歴史が込められている。
少し前に、『「日韓」のモヤモヤと大学生のわたし』という本の著者たちを取材した。その著者たちが異口同音に言っていたのが、歴史を知ることの大切さだった。
「そもそも何がヘイトスピーチにあたるのかという理解って、歴史的な知識がないと判断できないと思う。その理解を広めていかないとすごく危ない状況にあるんじゃないかと思っていて…」
この言葉にハッとさせられ、深く噛み締めた。同時に、歴史を知らせることの困難さにも言及していた。
差別のある現実と多くのマジョリティを接続する言葉、歴史を伝えるための工夫…。上に書いた一連の出来事を通して、私は(まだまだできることがあるかもしれない)と希望を持った。
長くなってしまったが、イオ11月号の特集は「ヘイトを許さない社会を目指して(仮称)」だ。
ヘイトスピーチ・ヘイトクライムについて一から学ぶQ&A、各地の市民や自治体、企業の取り組み、司法の場での前進、そして『「日韓」のモヤモヤと大学生のわたし』著者らへのインタビューなど盛りだくさん。発売は10月17日予定である。ぜひ手に取ってほしい。(理)