「日本は、深い眠りから目を覚ませ」ーアントニオ猪木さんの訃報に寄せて
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アントニオ猪木さんが亡くなった。
日本プロレス界に大きな足跡を残した人だった。プロレス界、さらに格闘技の興行面における功績は語るまでもないだろう。
プロレスラーという枠を超えて、政治の世界でも活躍した。
本人が残した業績については、ここで書くまでもなく、死去して1週間が経つ今でもさまざまなメディアで報じられている。
生前、本人を直接取材する機会が1回だけあった。2004年9月に平壌で開催された第1回「国際武道大会」。同氏率いる新日本プロレス所属のプロレスラーたちが総合格闘技ルールでのエキシビションマッチを披露した。当時、朝鮮新報の特派員として現地に滞在していた私もこのイベントを取材。短い時間だが、猪木さんにもインタビューした。体の大きさよりも眼力の強さが印象に残っている。
2020年に「イオ」の誌上で「朝鮮を語ろう」という連載をした。朝鮮(朝鮮半島の北、南、あるいは朝鮮半島全体)に対して強い思い入れを持つ日本人識者に朝鮮について語ってもらうという企画だ。連載が始まった当初、取材候補者としてリストアップした人たちの中には猪木さんも含まれていた。しかし、当時すでに難病におかされていたこともあって結局取材のオファーはせず。亡くなった今、その機会は永久に失われてしまった。
これまでたびたび本誌の誌面に登場した猪木さんだが、本人を大きく取り上げたインタビュー記事が載ったのは2012年9月号が最後。今からちょうど10年前、朝・日平壌宣言発表10周年に際した特集の企画のひとつとして掲載された。
記事のタイトルは、「日本は、深い眠りから目を覚ませ」。
本人の朝・日関係改善にかける強い思いが垣間見られるインタビューを以下に全文掲載する。
「燃える闘魂」よ、安らかに。(相)
日本は、深い眠りから目を覚ませ
話し合いの環境を整えるためなら、悪役でも買ってでる
アントニオ猪木氏●元プロレスラー、イノキ・ゲノム・フェデレーション社長
アントニオ猪木氏(69)が平壌で38万人を集めてプロレス祭典を開催したのは17年前、1995年のことだ。師匠である力道山(本名・金信洛)への恩返しから始まった朝鮮訪問は以降23回を重ねる。「両国は平和を目指すしかない」と話す猪木氏に「闘魂外交」への思いを語ってもらった。(文・張慧純、写真・鄭愛華)
2012年4月に金日成主席生誕100周年イベントに参加するために朝鮮政府の招待を受けて訪朝したが、日本を発つ時に今までにない嫌がらせを受けた。4月12日に羽田空港に着いてチェックインをしようとしたら、別室に連れていかれ荷物を開けられた。やましいものなんて持っていないから、「どうぞ」と答えると、驚いたことにカバンの隅から隅を、シャツの内側まで徹底的に調べるじゃないか。
それは私を狙った確信犯的なやり方だった。今まで世界各国を何十回と旅してきたし、訪朝も23回目だが、あんな屈辱を受けたのは初めて。北京に向かう機内でどんどん腹が立ってきて、知り合いの記者に怒りをぶちまけた。帰りは帰りで、師匠の力道山と私の顔が肖像化された切手を私の仲間が税関に没収された。理由は、「日本の風紀を乱す」からだという。私も師匠の力道山の顔も日本の風紀を乱すものらしい。だったら、公共放送で朝鮮のトップが代わったという報道もやめればいい。
末端では、幼稚園児のようないやがらせをする、こんな器の小さい政権をどうやって信頼して話せというのか。政治が狂っているとしか思えない。
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この間、日本は朝鮮に2つの制裁をかけて、それも効果がないということで、今は輸出入を全面的に禁じている。朝鮮は対話を望んでいるのに、日本は対話のドアを閉め、そのドアを開けるカギすらもなくした状態だ。
日本政府は経済制裁をかけて朝鮮が万歳することを願っているけど、いつまで経ってもそうはならない。それはそうでしょう。日本が制裁をかけたって、他の国から投資を受けているんだから。しかし、「制裁」は言葉を交えた戦争状態で、相当の覚悟が必要だ。果たして日本は戦争をする覚悟があるんですか?
日本と朝鮮との歴史的な関係を考えた時、私は平和を目指すしかないと思っている。日本政府も平和外交を標榜しているのなら、平和に向けた知恵を絞らなくてはならない。例えば、拉致問題を解決するまでは国交交渉をしないというけれど、この言葉も矛盾している。話し合いをしなければ拉致問題も解決できるはずがないからだ。こんな矛盾や不合理がまかり通っているのに、気づく人も少ない。1990年の湾岸危機の時、イラクのバグダッドで日本人人質を解放するため、「スポーツと平和の祭典」を開催したことがあるが、話し合いを通じて戦争を回避し、命を守りたい一心からだった。
6年間の国会議員時代に外交に携わった経験から、世界にはどの国にも譲れない考えがあると知った。相手を知ることが外交の大前提で、だからこそ私は朝鮮で見聞きしたことを伝えることが自分の役割だと思い、発信している。いま朝鮮がどんな理想をもってどういう国を目指しているのかということだ。それが、祖国を訪ねた朝鮮高校の生徒たちがお土産に買ったカレンダーすらも取り上げる。こんなバカバカしいことが「制裁」として成り立っているのが今の日朝関係。つくづく日本は朝鮮問題については深い眠りに入ってしまったと感じている。ここで「おかしい」というメッセージを送り続ける人間がいなければ、誰も目を覚まさない。だから私は声を上げ続けている。ただ、反応はイマイチなんだよね。
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昨年、金正日総書記が亡くなった後、朝鮮は新しい体制になり、変化を起こそうという意気込みが感じられる。状況は非常にいい方向に変わっている。今、平壌では交通渋滞が起きていて、ビルの建設ラッシュ。しかし、日本のマスコミはこれを報じない。理由は簡単、制裁の効果が出ていないことを国民に見せたくないからだ。
おそらく朝鮮に「怖い国」というレッテルを貼り続けることの方が都合のいい人が多いんでしょう。国交正常化しないことで利益を得る人たちがね。私だって初めて朝鮮に行った時は、「怖い」を含め、いろんなイメージを持っていましたよ。いや、植えつけられているわけだ。
最初に朝鮮を訪れたのは、1994年。師匠の力道山に恩返しをしたいという思いからだった。17歳の時、師匠にブラジルでスカウトされ、亡くなるまでの3年間、付き人として傍にいたが、戦後最大のヒーローだった師匠が朝鮮人として苦労したこと、朝鮮半島の統一を願っていたこと、家族との再会を待ち望んでいたことは亡くなった後に知った。94年に初めて娘の金英淑さんにもお会いし、知人に分けてもらった遺品のゴルフクラブを直接お渡しした時も、娘さんは遺品をジッと見ておられた。
その翌年の95年、平壌で「平和のための平壌国際体育・文化祭典」というビッグイベントを開催できたことは私にとって大きな出来事だった。リングでは米国のレスラー、リック・フレアーと対戦、2日間にかけて38万人の市民たちがプロレスに熱狂してくれた。プロレスは「国対国」の戦いではなく、観客がファンを勝手に選べる、スポーツの中でもエンターテインメント性が高い競技。その時の雰囲気? 19万人が一瞬にして猪木ファンになったというのかな。体育館だとワーワーワーという歓声だが、遠くから「ワーッ」と波が迫るような歓声が聞こえてくる。とにかくプロレス人生で初めての経験だった。
この祭典を機に、日本と朝鮮半島をつなぐことが自分の宿命のように思えてきた。政府、党の高官の人たちと酒を酌み交わしながら、食事をしながらざっくばらんに話を重ねてきたし、パイプを作ってこられた。このパイプを効果的に生かして両国が話し合いをできる環境を作っていきたい。プロレスであれ、何であれ、何かを動かして、このバカバカしい状況と、外交をまともなものに戻し、両国が平和に生きられる国交正常化を実現させたい。(月刊イオ2012年9月号より転載)