企画会議という空間
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来年度の企画会議が始まった。といっても、9月末から始まっている(笑)。
年間企画会議では、これまで数年間、そして今年度進めてきた連載企画の続投/終了を取捨選択し、今年できたこと・できなかったこと、来年のコンセプト、イオがどうあるべきか、編集部員の問題意識がどうあるべきか―などを話し合い、新連載企画を皆で持ち寄る。今年は、年下3人のAチーム(筆者所属)と年上3人のBチームに分けて行った。
Aチームでさまざまな意見を共有しながら、「そういえば、連載企画を出した当初からコンセプトがずれてしまっていたな」「誌面が限られる中で、『これまで当たり前のように続けてきたから』という理由でこの企画を続ける必要があるだろうか」という意見にハッとさせられたり、「雑誌は、記者の問題意識や知識の枠の範囲を超えられないので、『取材として』ではなく、知見を養うために学習会などに行かなくてはいけないよね」「いろんな同胞を取りこぼさないための誌面作りをするには、どうしていけばいいか」という問題提起には改めて考えさせられた。
とはいえ、重い空気で頭を酷使するのではなく、ざっくばらんに話し合うので、刺激あり、発見あり、笑いありの楽しい空間だった。
「多様な人を取りこぼさない大衆誌」を作ることの難しさは、ひしひしと感じている。
というのも、毎月行われる特集企画会議でも、編集部員の年齢や立場(既婚/未婚、子どもの有無、部活などの経験)や趣味、周囲の人付き合い…などによって、それぞれ問題意識の優先順位や好みが違うことが、はっきりわかるからである。
例えば、「朝鮮学校、民族教育を守る」という意識はあっても、未婚で子どもがいない筆者にとって、「学校教育」や「子育て」のテーマは距離があり、なかなか企画を立てることができなかった。
たった6人でも違うのだから、さらに多くの同胞にリーチする雑誌―となると、それぞれが自身の感覚や価値観の外側までアンテナを張らなくてはいけないな…と毎月思わされるし、このようにさまざまな年齢、立場の価値観に触れられる環境に身を置いているのは得だな、とも思う。
また、企画会議は、自身の疑問や問題意識をぶつけられる場でもある。
時に、(これを言うと話が脱線するだろうな)(トンチンカンな発言だろうけど)と半ば確信犯的に発言するのだが、「言わんとすることはすごくわかる」「今言ったことはすごく大事で…」と意図を汲み取ってくれ、それに対する何らかのレスポンスをくれたり、共に考えてくれたり、やはり話が脱線して盛りあがったりするのだ。
筆者は、毎月の特集企画を練るのがめっぽう苦手で、どこかSF味のある企画になってしまうのだが、Aチームの企画会議では、その中で生活や同胞社会とリンクさせられる部分を共に探し、「ここを詰めてみれば面白い企画になりそう」と形になるよう導いてくれた。
そして、個々の問題意識や生活の中のモヤモヤを話し合いながら、書籍やラジオ、講座、サイトを紹介し合い、実に収穫の多い空間となった。
((理)さんは、幅広い分野に触れていながら独特の感性で面白いものを生み出すし、(麗)さんはサブカルチャーと言うべきか、コアな部分と言うべきか、なかなか筆者がたどり着かない世界観をひっそり楽しんでいる印象。それぞれ面白い感覚をシェアしてくれる)
そうして、少しずつ来年のイオが形になってきた。
現在、12月号を制作しながら、来年1月号に向けて準備を進めている。(蘭)