エッセイ 連載・朝鮮学校百物語(全70回)を終えて vol.1
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2015年1月から始まった月刊イオの連載「朝鮮学校百物語」が2023年1月号の70回目を最後に終了しました。最新号の2023年3月号には、70回の連載を振り返る記事と担当記者のエッセイが掲載されています。ブログ日刊イオでは、担当記者たちによる、より詳しいエッセイを今日から3回にかけて記します。
●地理学者の司空俊先生
朝鮮大学校歴史地理学部(当時)で朝鮮地理を教えていた司空俊先生。その取材で目にした日記には圧倒された。
司空先生は10 代からの日記を残しておられ、さらにそれを編集したものを見せていただいた。司空先生の記事を書くためには教員生活50年の膨大な経験と研究成果をたどる必要があったが、この日記があったので、その時に先生が「何を見て何を感じたのか」を追体験することができた。
取材のきっかけは、ご家族から「父の話を聞いてほしい」と頼まれたからで、「いつか」と思っていたところ、「具合が悪い。急いだ方がいい」という知らせを聞き、急いでご自宅を訪ねた。闘病生活を送る先生には、体力気力の限界があり、一日話を聞くのも1時間が限界だった。
…なぜ朝鮮地理だったのか―。
「今から百年前にあなたの先祖に子どもがいなければ、あなたは存在しない。地球の歴史から見ると、一回も途切れることなく、命がつながれてきた時間の流れがある。命が続いてきたもうひとつの要素は空間。空間とは地理なのです。時間と空間をいかにつなぐかということに、地理を研究する意味がある」
「日本で朝鮮の地理を教えるというのは、とてつもなく大きな意味がある。地理を教えることで、在日の学生たちを変えたい。常にそう思ってきました。自分はなぜここにいるのか? 何のためにこうなったのか。人が変わるきっかけは、自分の存在を認識できた時に訪れる。時間と空間の中で自身を自覚した人間は強いのです。歴史の流れの中で朝鮮を感じてほしい」(連載28回目、2017年7月号)
地理学者、教育者のこの一言は胸に深く刻まれた。今読んでも民族教育の深い意味を汲みとれる。司空先生は祖国からの教育援助費と奨学金を授与された第1号だった。
●東京朝高ボクシング部、李成樹監督
世界チャンピオンを輩出した東京朝高ボクシング部の李成樹監督(享年46)を書く動機は、教え子たちが授けてくれた。
逝去から10年の追悼の集まりを取材してほしいと依頼を受け、東京・十条の東京中高に出むいた。早世された李先生を想うとき、いつも私は暗い気持ちになっていたが、李先生を追悼する集まりはとても明るく、李先生の思い出に満ちたものだった。
「人生のカウンターパンチャーになれ―」。
この教えを胸に生きる教え子たちは、李先生にしごかれた思い出、時に浮世離れした先生の言動を笑いながら懐かしんでいた。ボクシングが大好きで、李先生との出会いが生きる糧になっていることが胸に迫り、温かい気持ちになった。
帰路、「李先生を書こう、書いて残すべき人だ」と決心し、この連載で一番多くの人にインタビューをし、短くも太い人生を描いた。
インターハイといえばサッカー、ラグビーが注目されるが、最初に結果を出したのはボクシングだ。
道なき道を作った李先生のそばには、公式戦への出場が阻まれていた時に練習試合を組んだ日本人教師、李先生とともに、朝高ボクシング黄金期を築いた大阪朝鮮高級学校(当時)の梁学哲監督、そして、「李先生の本気」に心酔した教え子たちがいた。
今、教え子たちは日本各地でボクシングを教えている。大阪、東京とともに世界チャンピオンを輩出した朝高ボクシング部は、名実ともにウリハッキョスポーツのパイオニアだと思う。
●朝鮮幼稚班~1970年代の女性教員たち
2019年から始まった幼保無償化からの朝鮮幼稚園排除を受け、ウリ幼稚園の始まりについて興味が沸いた。
2019年11月号に掲載された連載49回目では、働く母親のニーズ、増え続ける生徒数、祖国への帰国熱という、同胞社会の熱量に押されながら1950年代に生まれ、60、70年代にその数を急速に増やしていった朝鮮幼稚園の始まりの歴史を振り返った。
連載50回目では、1970年代に教員となった女性たちを取材した。草創期に幼稚班で教員をした女性たちは、朝鮮初級学校で教えた教員が多かった。カリキュラムもすべて手作り。無から有を作り上げる営みだった。
「…子どもと山へドングリを拾いにいき、ムッ(묵)を作るんです。しばらく乾かすとドングリの皮がはじける。子どもたちが皮をむいてゆでると、茶色い渋が出てきます。떫다(渋い)という言葉も教えてね。でも子どもたちは『渋い』がどんな味なのかもわからない。渋柿を取ってきて食べさせたり、トックやファジョンを作りながら五感を通じて、遊びを通じてウリマルを教えていきました」
李在任さんは、東京朝鮮中高級学校臨時教員養成班を1期生で卒業後、静岡県の浜松で教員生活をスタートさせた。結婚後に兵庫県下の朝鮮学校に赴任。西神戸、明石、高砂などで教えつづけ、42年の教員生活のうち、31年を明石初級で過ごした。当時の保護者の大多数は2世で、「朝鮮幼稚園に通わせる以上は立派な朝鮮人に育ってほしいという思いが強かった」と李さんは話す。
「『위생실에 갔다오겠어요(トイレに行ってきます)』などの言葉を家で使うようになって、同じように言うよう子どもに指摘されたと、親御さんと大笑いしました」。1世が減る中、家庭に朝鮮語の息を吹き込んだのは園児たちだった…。(連載から)
教育現場で「教える」のは大人だが、幼い子どもたちによって大人たちも教員になっていく―。
幼子たちが「ウリ文化の担い手」として育っていく様子を感じることができる李先生のコメントだった。教育とはともに育んでいくもの―この実感が李先生の言葉から伝わってきた。
日本籍から朝鮮籍へ変え、保育の通信教育を受けた後、30年近く東京朝鮮第1初級級学校附属幼稚班で教員を務めた鄭亨順さん、民団の家で育ち、家族の反対を振り切り、朝鮮学校教員の道を選んだ朴信載さんの話に、民族教育を担うために人生をかけた女性たちの強い意志を感じ、この人たちがいたからこそ、朝鮮幼稚園の歴史がつながれてきたんだ、と胸が熱くなったことも思いだされる。
●私たちの歴史をなぜ書くか
「朝鮮学校百物語」の70回中、「はじまりのウリハッキョ編」が51回を数えた。「学校の歴史の最初」に関する話が多くを占めたことになる。
同胞社会が3世代、4世代を重ねていることを受け、父母、祖父母、曾祖父母時代の話をきちんと語りつぐことが必要だとの記者たちの問題意識が根底にあったと思う。さらには日本各地で朝鮮学校の統廃合が続いていることも、「なぜ学校を建てたのか」「民族教育を欲した人は誰か」という「はじまりの歴史」こそ、今日的なテーマだったと感じる。
母校、そして縁のある学校を失った同胞社会の喪失感は大きい。
学校が減る=同胞社会の求心力が減っていくほど、喫緊の課題だからこそ、それぞれの学校の歴史をなぜ書くのか―その強い動機と理由がなければ、歴史はいつか忘れ去られてしまうのではないかと憂慮する。
茨城朝鮮初中高級学校、北海道朝鮮初中高級学校、東京朝鮮中高級学校など、学校内に沿革室がある学校は増えているが、全体を見るとまだまだ少ない。
大阪朝鮮第4初級学校は以前、学校の歴史を証言と映像で残したが、「後代に残す形」はもっとバリエーションがあっていい。京都の同志社大学では日本人教員を中心に「朝鮮学校と銀閣寺」のテーマで歴史が調査されている。
さまざまな地域で歴史の発掘が進めば、朝鮮学校の歴史はより豊かに私たちの目の前に立ち現れる。
そして、かつての歩みが、私たちに「今、何をなすべきか」を示してくれるだろう。(瑛、続く)