エッセイ 連載・朝鮮学校百物語(全70回)を終えて vol.3
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2015年1月から始まった月刊イオの連載「朝鮮学校百物語」が2023年1月号の70回目を最後に終了しました。最新号の2023年3月号には、70回の連載を振り返る記事と担当記者のエッセイが掲載されています。ブログ「日刊イオ」では、担当記者たちによるより詳しいエッセイを3回にかけて掲載します。今日が最後の3回目です。
物語の語り部たちへの感謝
開始当初はここまでの長期連載になると思っていなかった。
正直に書くが、初めはたいそうな使命感があったわけではない。
筆者自身も通った朝鮮学校はエピソードの宝庫だ。同級生同士でも盛り上がるし、先輩方の体験談を聞くのも面白い。卒業生というだけで、通った時代や学校を違いを超えて話が通じるし、親近感がわいてくる。そんな朝鮮学校にまつわるさまざまな話をまとめたら面白い読み物になるのではないか―。そんな思いを抱いていた。
全70回の連載のうち、25回分の取材・執筆を担当した。印象深い取材をいくつか挙げたい。
東京朝鮮第9初級学校の設立にかかわった人物として紹介された権寧時さんは取材当時(2015年4月)98歳。阿佐ヶ谷駅前の喫茶店で話を聞いた。「杉並区役所の空き部屋を借りて教室として使った」。46年の開校時に学校を建てる側だった人の証言は貴重だった。
「師弟の共同作業から生まれたデザイン サンペンマーク誕生秘話」(2016年2月号掲載)の回で話を聞いた東京朝鮮中高級学校1期生の朴文侠さん。マークのデザイン考案者の名前が明らかになっていたこと、さらに存命だったということに驚いた。
茨城県水戸市内の自宅を訪ね、インタビュー。草創期の学校のようすがわかる貴重な写真の数々も提供いただいた。朴さんの証言自体は取材当時の慎吉雄・東京中高校長がまとめていて、私は本人と会ってその証言をなぞり、細部を確認したに過ぎない。あの記事はほとんど慎さんが書いたともいえる。
余談だが、もう一人の考案者である当時の美術教員・朴周烈さんに関する記述が後日、在日朝鮮人美術史の論文に引用された。サンペンマークを取材した内容がまわりまわって同胞美術家の足跡を裏付ける情報として役立ったのはうれしかった。
朴さんは記事が出た数年後に亡くなった。遺族からは、提供写真は自由に使ってもらって構わないと言ってくれた。それらの写真資料は「サンペンマーク誕生秘話」の記事以外でもたびたび使わせてもらった。
「日本語教科書の歴史(上・下)」(20年4~5月号掲載)の取材では、30年以上にわたって教科書編さんに携わってきた父親(李成出)の仕事にも触れた。当時、父とともに働いた方々が取材に快く協力してくれたことはありがたかった。
「朝鮮学校百物語」の連載を通じて、これまで断片的に整理されていた学校の沿革、卒業生やその地域の人びとしか知らなかった歴史を、ひとつのストーリー、雑誌記事という読み物として再構成し、多くの読者に届けたことは意義のあることだったと思う。これまであまり取り上げられなかったテーマ、ニッチなテーマに目を向けたことも成果の一つだろう。8年という長期連載の過程で、資料の収集においても一定の成果があった。地域で学校の歴史の保存に取り組む人たちや研究者たちとのつながりも作れた。
一方で、取り上げられなかったテーマ、候補としてあがっていたが結局着手できなかったテーマもあった。証言者の確保や資料(文書、写真)探し、証言の裏どりが不十分だったケースも多々あり、反省している。
東京朝鮮第4初中級学校3期生の呉旗玉さん(「創立70年、荒川土手の夕陽は永遠に 東京朝鮮第4初中級学校」、2015年1月号掲載)、西今里中学校の教壇に立った朴鐘鳴さん(「試練の時代を乗り越えて 西今里中学校から中大阪朝鮮初級学校へ」、15年4月号掲載)、千葉県内の朝鮮学校で長く教員を務めた李槿愛さん(「新校舎建設に注いだ情熱 千葉朝鮮初中級学校」、15年5月号掲載)と中央師範学校第2期生で船橋の朝鮮学校で校長も務めた李沂碩さん(「短期講習から師範学校へ 教員育成の歴史」、17年12月号掲載)夫婦、そして前述の朴文侠さん―取材後に亡くなった方々も少なくない。バックナンバーを読み返しながら、証言者への感謝の念があらためて沸き起こった。
朝鮮学校百物語―手前味噌だが、いいタイトルだと思う。物語の掘り起こしはこれからも続く。(相、おわり)