不屈の精神、忘れない―「4・24」教育闘争から75年
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日本の植民地支配から解放された在日朝鮮人が、日本政府とGHQの弾圧に反対して戦った1948年の「4・24教育闘争」から75周年を迎える4月24日、当時獄死した朴柱範・朝連兵庫県本部委員長、大阪府庁前で銃弾に倒れた金太一少年が眠る青山霊園(東京都港区)の「解放運動 無名戦士の墓」の前で、10回目となる「今、再びその日を称え、心に刻む場」(以下、「刻む場」)が催された。
「刻む場」は、『朝鮮学校がある風景』を出版してきた金日宇さん(2019年逝去)が13年から毎年主催してきたもので、新型コロナウイルスの感染拡大を受けて20年には中断されたものの、21年からは再開され今年10回目を迎えた。
主催は朝鮮学校「無償化」排除に反対する会。45人が参加した今年の「刻む場」では、「4・24」の今日的意義について、田中宏・一橋大学名誉教授が、1950年12月20日に閉鎖令が出された朝連守山初等学校で日本の官憲と闘った体験を裵永愛さん(80、愛知県在住)が、48年4月24日に兵庫県庁での闘いの場にいた父・梁相鎮さん(故人)の体験を長女にあたる梁玉出さん(72)が、「刻む場」への思いを金日宇さんの連れ合いの金淑子さんがそれぞれ語った。
田中宏さんは、国連で「世界人権宣言」が採択された1948年、日本では在日朝鮮人の民族教育への大規模弾圧が起きたとし、弾圧のきっかけとなった48年1月の文部省通達「朝鮮人設立学校の取り扱いについて」は、朝鮮人であっても学齢に該当するものは、日本の学校に通わせなければならないという、「戦前同様の同化教育」だったと批判した。
守山の学校閉鎖で、母親が重傷を負った裵永愛さんの体験は壮絶なものだった。
チマチョゴリをまとい、墓の前に立った裵さんは、学校が閉鎖されたその日、学校や教師たちを守ろうと駆けつけたオモニが警察に連れて行かれ、こん棒で頭を叩かれ重傷を負い、生涯にかけて片耳の聴力を失ったこと、実姉が49年の朝連(在日本朝鮮人連盟)解散後、集団暴行を受け20代で亡くなった深い悲しみを伝えた。
父・梁相鎮さんの「4・24」体験を語ったのは、梁玉出さんだ。梁相鎮さんは、獄死した朴柱範さんと同じ朝連阪神支部に赴任し、朴委員長が本部に赴任した後は、連絡係として働いていた。
「『4・24』のその日、兵庫県庁で閉鎖令撤回を訴えた3万人の同胞の中にアボジもいました。警官を前に『撃てるものなら撃ってみろ』とブラウスを脱いで訴えた同胞女性や青年たちがいました。アボジは、勇敢なその女性を探し続けましたが、姫路の女性ではないかという手がかりだけで、最後まで突き止められなかった。この闘いで名もない人がどれほど犠牲になったでしょうか」と悲しみ、「当時、私たちには人間の尊厳すらなかった。『4・24』はどんなことがあっても心に刻むべきこと。このような歴史が繰り返されてはならない」と強く訴えた。
金淑子さんは、「刻む場」を発起した夫の金日宇さんが生前、東京朝鮮第3初級学校に通っていた頃の話をよくしていたと語り、「私は小中と日本学校に通っていて、『心の中の朝鮮』を墨で消そうとしていた。朝鮮とは得体のしれないもので、取りつかれたようにおびえていた。朝鮮学校に通った人は朝鮮人であることを特別なことだと思わない。このような認識は自分一人で育てられるものではない。私たちがより人間らしく生きるために朝鮮学校という存在が大切だと思う」と自身の教育体験に基づく民族教育の意義を語った。
千葉朝鮮初中級学校を支える「千葉ハッキョの会」呼びかけ人の堀川久司さん(65)は、「体験者の証言は迫力があった。とんでもない経験をして、気持ちは散々傷ついたのに潰されたのに、『潰されてたまるか!』という強い気持ちが伝わってきた」と感謝を伝えていた。