朝鮮学校の真価を考える
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先日、都内の朝鮮学校で行われた学校公開と交流会。ウリハッキョを中心とした地域住民との交流の場となったが、その後に放送された報道番組ではコメンテーターから朝鮮学校に対する差別の再生産につながるような表面的で軽薄なバイアスのかかった発言があった。先週の(瑛)さんのブログでこのことが報じられているので、一読願いたい。
なぜ、朝鮮学校の経営が難しいのか、それを少しインターネットで簡単に検索しただけで得た「答え」をもとに論じるコメンテーターの姿勢には、根本的な歴史認識の欠如とともに、高度情報化社会の中で簡単に得られる「検索結果」があたかも「正解」だとして話される現代社会の問題点までもが露呈しているのではないか。そして、(瑛)さんがのべたように、「在日コリアンにとっての民族教育の意義」という視座の欠如もある。
そこで、民族教育および朝鮮学校の真価を考えた時、筆者は「朝鮮学校が過程を重んじるところ」だということを強調したい。
「ウリハッキョ(朝鮮学校)の真価とは何か」を主要なテーマに掲げて行われた第13回中央オモニ大会(5月19日開催)では、朝鮮学校が人生観を形成する場となっていること、つながりを生むこと、そして「民族教育=脱植民地化」ということなどが話された。
「脱植民地化」の「化」というのは、結果ではなく、「変わる、別のものになる」過程のことを意味する。それは受動的なものではなく、能動的なプロセスなのである。朝鮮学校では自らのことば、歴史、文化を主体的に学ぶことができる。それゆえ、ものごとの表面ではなく、本質を見抜くことができる人材が育つ。
また、「脱植民地化」を行う者として在日朝鮮人は「第三世界の一員」たりえるのだ。民族教育は、これまで抑圧されてきて、歴史の深層に位置してきた「第三世界」の国々と同じく、在日朝鮮人を強く、たくましく育てるのだ。
では、日本社会にとっての朝鮮学校はどうか。
朝鮮学校は学校公開や交流会、文化祭などさまざまな催しを行い、その門を地域住民、日本社会にも開いており、朝鮮学校を中心とした人びとの大きなつながりを生んでいる。
また、田中宏さん(一橋大学名誉教授)が指摘するように、朝鮮学校は「炭鉱のカナリア」でもある。危険を察知し、いち早く知らせてくれる役割を担う「炭鉱のカナリア」なくして、過去の反省や、植民地主義の克服なくして、日本社会は真の発展・成長を遂げることはできないだろう。
朝鮮学校には普遍的な価値がある。(哲)