70年目の「7.27」/〝分断〟を生きてきた私たちへ/鄭栄桓さん
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朝鮮半島の分断を決定付けた朝鮮戦争の停戦から70年。分断と戦争は在日朝鮮人の生にいまだ深い影響を及ぼしています。そして日本政府は法的処遇を通して在日朝鮮人社会に分断を持ち込んできました。その始まりと今後の展望について、『歴史のなかの朝鮮籍』(以文社、2022年)の著書がある、鄭栄桓・明治学院大学教授(42)のインタビューの全文を掲載します(月刊イオ2023年7月号「私たちと朝鮮戦争」に掲載)。シェア大歓迎です。
亡き1世、2世の思い
―在日朝鮮人の多くは朝鮮半島の南部の出身ですが、祖国解放後は、朝鮮がじきに統一されるとの思いを抱き、生きてきました。長引く分断体制のもと、生き別れた親きょうだいと会えずにこの世を去った1世、2世は数知れません。
父方の祖父は、1921年に慶尚南道固城の生まれで7人きょうだいの次男でした。南にも親類がいましたし、共和国に帰国した姉もいます。祖母も同郷でしたが、解放後には故郷に行ったことはなかったはずです。ハルモニの両親について生前、聞くこともありませんでした。また、高2の時、47歳で亡くなった私のアボジは日本学校に通ったためウリマルを話せず、朝鮮半島にも一度も行ったことがありません。こうした1世や2世は多かった。
なぜハルモニが朝鮮籍にこだわったのか、アボジが「祖国」についてどう思っていたのか、いまでは知ることができません。ただ故郷を訪ねたい、母国で学びたいという願いと、節を曲げ、尊厳を放棄してまで韓国に行くべきなのかという揺らぎと葛藤を抱えていた人も少なくなかったでしょう。統一した後に故郷へ帰るという誓いを胸に「行かない」という生き方をした1世は多かったと思うのです。
解放民族として扱われなかった
―過去、外国人登録証明書の国籍表示欄が「朝鮮」「韓国」と分かれてしまったことが、在日コリアン社会の分断、とくに「意識の分断」を招いていると思っています。「どちら側の人間か」と踏み絵を踏ませる日本の朝鮮人政策はどのようなものでしたか。
日本政府は、植民地支配から解放された朝鮮人を「解放民族」として処遇するべきでした。しかし日本政府はそれを認めず、47年5月に施行した外国人登録令の適用に限り「外国人」とみなします。そして朝鮮人、台湾人については、その「国籍(出身地)」欄に「朝鮮」、「台湾」と記すよう指示します。
最初の問題は、日本政府が国籍欄に「朝鮮」と書かせておきながら、朝鮮人を日本国籍であると見なしたことです。当時の朝鮮人は「解放民族」としての権利を求めていましたが、むしろそれを抑え込むために外国人登録令を作り、そして出身地としての「朝鮮」という記載だけを許した。これが朝鮮籍のはじまりです。
朝鮮半島の北と南に別々の政府が樹立されていく過程で、韓国政府は49年から50年にかけて外登の国籍欄に「韓国」と表記するよう求めます。はじめ日本政府は嫌がりました。自らが管理している朝鮮人に韓国の手が及ぶことを警戒したからです。いわば植民地主義対反共主義の争いでした。最終的にはGHQの意向で国籍欄に「韓国」と記載できるようになりますが、「朝鮮民主主義人民共和国」と記載することは認められませんでした。
また、50年に「韓国」表示を認めたときは、これがただちに韓国国籍を意味するわけではないとの解釈を示しますが、実際には韓国籍と朝鮮籍の間に扱いの差が設けられました。さらに52年には日韓会談の結果、両政府は朝鮮人の国籍を「韓国」で統一することで一旦合意します。日本政府は朝鮮半島の分断と戦争に関与し、そして在日朝鮮人の法的地位問題にも分断が持ちこまれていくのです。
平和統一を望んだ同胞たち
日韓両政府の方針が知られると、韓国国籍強要への激しい反対運動が起こります。共和国を祖国と考える人々はもちろん、中立の立場からも反対が示されます。例えば朝鮮人商工会連合本部は、52年1月18日に、「在日朝鮮人は、南北政府の何れの国籍をも押し付けられることを喜んでいない。」「何故ならば、それは祖国の分裂を固定化し、民族の滅亡を扶けるようなことだからである」との請願書を日本政府に出しています。
日韓会談が請求権問題で決裂したこともあって、結局問題は先送りされました。朝鮮籍が残ったのはこのためです。しかし日本政府は、全朝鮮人が韓国国籍であるという解釈を維持しました。戦争の結果、朝鮮半島は韓国によって統一されるだろうとの想定のもとでのことでした。
停戦協定が成立すると、日本政府のこうした想定は成り立たなくなりますが、それでも韓国籍と朝鮮籍の処遇の格差は変わらず、1965年の日韓条約により固定化されるようになる。この結果として在日朝鮮人コミュニティに暮らす人たちに分断が持ちこまれてしまった。この一連のプロセスこそが「始まりの暴力」だったと思うのです。
「錨」としての朝鮮籍
―私たち在日朝鮮人は、朝鮮半島の分断体制にどう抗っていけるのでしょうか。
分断体制は在日朝鮮人にとっても巨大な障壁となっています。特に朝鮮籍者はそれを実感する場面が多い。私自身の経験に即しても、韓国への入国が許可されないこともあり、また、在外研究で英国に滞在した際には、共和国旅券で渡航したこともあり、入国の際に刑事に執拗な取調を受けたこともありました。そもそもビザ自体が出ない人も少なくないでしょう。こうした経験をすると朝鮮籍を「足枷」のように感じる人も出てくるだろうと思います。
しかし私は、朝鮮籍者としての経験は、祖国を分断させ、在日朝鮮人への抑圧を継続させる暴力の実像を認識する契機にもなりうると思います。朝鮮籍は、植民地主義の歴史に加えて、私たちの祖国が統一へと向かう過渡的なプロセスにあることの象徴のような存在だからです。また、韓国籍、日本籍に変えた同胞たちも、みなかつては朝鮮籍だった。変えざるをえなかった理由がある。その踏み絵を踏ませた側の「暴力」を問わねばならない。歴史のなかで朝鮮籍は、こうした暴力に抗い、自らの生きるべき道を探るための支えになってきた面がある。だからこそ私は本のなかで朝鮮籍を「錨」と表現したのです。
こうした歴史に真摯に向き合い、日本政府は分断への加担をやめ、朝鮮人の統一と自決の意思を尊重し、植民地主義への根本的な反省に基づいた在日朝鮮人政策をとるべきです。また南北両政府は在日朝鮮人と協力して、自由往来などの懸案問題の改善の努力を積み重ねる必要があります。
20代の頃から歴史を研究してきましたが、いつも在日朝鮮人の歴史に励まされてきました。朝鮮民族の解放のために苦闘した人々の歩みにこそ、今日を生きる「希望の資源」(E・サイード)がある。こうした歴史に学び、同胞と互いの経験を語りあい、私たちの現代史を取り戻そうと伝えたい。同胞たちは厳しいなか力強く生きてきたのですから、その歴史を誇り、大いに語るべきだと思うのです。
朝鮮戦争を終わらせる努力の過程で、本国、海外ともに朝鮮人が生きる前提条件は変わっていくでしょう。70年という長きにわたり、「分断」を生きてきた在日朝鮮人こそが、統一を切実に語り、その道を切り拓くべき存在だと思っています。(整理/張慧純)