高校球児の髪型と「時代」の話
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つい先日、美容院に行ったときのこと。
そこは何年も前から行きつけなのだが、施術も同じ美容師が担当してくれている。かれこれ3〜4年になるだろうか。その人の気さくな性格に付き合いの年月が相まってか、毎回、話が弾む。
その日は今年の夏の甲子園の話で盛り上がった。
(※以下セリフは記憶を辿って書いています)
美容師(師):慶應が107年ぶりの優勝ですって。ものすごい歴史を感じますね。
私:本当ですね。大盛り上がりだったみたいで。
師:コロナも落ち着きましたしね。
私:そうですね。
師:自分としては、(丸刈りではなく)自由な髪型で試合に参加している生徒たちを見て、時代を感じましたよ。
…
唸った。
もちろん職業柄、髪に目が行くのもあるだろう。それに他でも聞いたことのある話だ。それでも「なるほど」の連発だった。
その美容師はこんなことも話してくれた。
「もう、部活に打ち込んでこそ青春だ、とか、何がなんでも頑張れっていう精神論とか、『こうあるべきだ』で通じる時代はとっくに過ぎたんだなって」
この人、どこまで私を唸らせるのか。髪の唸り(うねり)は綺麗に直してくれるのに。
とつまらぬ洒落はやめよう。些細な世間話から、心の奥底に眠っていたモヤモヤをも照らしてくれるような感覚を得られた。
今から少し過去の話。
スランプに陥った。
何をやってもうまくいかず、毎日心ここに在らずで、うまく記事が書けず辛い日々が続いていた。
そんなとき相談に乗ってくれた人たちから受けた言葉はこんなものだった。
「早く関心分野を見つけなさい」
「書きたいものを見つけなさい」
「若いうちは死に物狂いで働いてなんぼ」
「頑張れ」「もっと頑張れ」
…
苦しかった。一見優しい、力強い言葉かもしれないが、「めちゃくちゃ」酷だ。
その言葉通りにやってみても、心がギュッと締め付けられた状態で、無理して出口を見出そうとしたって上手くいくはずもなく、空回りしてばかり。苦しさは増すばかりだった。
幸いその後の取材相手たちに恵まれ、「やりがい」という一寸の希望を見出せたのが救いだった。もしあの時あのまま負のループから抜けきれずにいたら、今頃どうなっていたのだろう。
(もちろん、その人たちだって善意から言葉をかけてくれたはず。責める気はない)
先の美容院での野球話とは話が逸れたように思えるが、別問題ではないはずだ。
学校の部活動に関して言えば、昨今、特にコロナ禍を経て、多くの学校で部活の長さや水分補給を含む休憩の取り方など、さまざまな角度から運営方法を見直している。社会でもそうだ。毎年のように労働者の働く環境改善や健康と福祉を増進するための法改正が行われているのはごく一例に過ぎないだろう。
それなのに、未だ多くの人が認識をアップデートできていないように思えるのは私だけだろうか?
ここで言いたいのは会社などの「枠組み」の在り方云々ではない。あくまでも個々人の認識・行動(言動)の話だ。
上の画像のような人が身近にいたらどのような声をかけるだろうか。
とにかく相手の「尻を叩く」だけになっていないか?
その「頑張れ」に責任を取れるのか?
そもそもともに働くあるいは学ぶかれかのじょたちの表情の変化に気づいているか?
※もちろん、「それならサボっていいのか」とか「まともな指摘もできないじゃないか」という話では全くない。しかし、「サボった理由」もっといえば「サボらざるを得なかった理由」があるのではと、相手に一歩、歩み寄るのは、必ず踏むべきステップだと思う。
歩み寄りはタダだ。何一つ減るもんでもない。できない理由はどこにもない。
何よりこれは人の生そのものと直結する問題だと考えている。人の心は脆い。身体も脆い。人は弱い。人の命は儚いーー。
8月も終わり。夏休みシーズンも今日までだ。この時期は学生たちや若年層をはじめ多くの人に心の不調が現れるとさまざまな記事で目にする。
「働きたくない」「学校に行きたくない」「辛い」「苦しい」…
そんな人がいたら「休んでも大丈夫」「安心して」と寄り添いたい。絶対に。
今、辛い人へ、何かメッセージが届けば幸いだ。(鳳)