消費する者たち
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先日、新宿駅前で行われた群馬の森朝鮮人追悼碑の撤去に反対する市民たちのスタンディングデモ。撤去反対を訴える市民有志らに対し、排外主義者たちが押し寄せ、それを妨害した(詳細はこちらから)。
排外主義者らは追悼碑撤去の訴えに飽き足らず在日朝鮮人に対する明らかなヘイトスピーチを吐いた。カウンター活動による「市民の壁」のおかげか、剥き出しの憎悪を前に「当事者」である私はその場では淡々と取材をしたが、改めて当日の出来事を振り返ると怒りが湧いてきた。
排外主義者たちは「約束を守れよ馬鹿野郎、おい、腐れ朝鮮人」や「お前ら朝鮮人が…」などとしきりに差別的な言葉を発した。しかし、よくよく考えるとこの日現場にいた人びとは私のほか1人、2人くらいを除いてみな日本人の有志たちであった。これらの憎悪扇動表現は当事者「不在」の中で行われたものであると同時に、追悼碑を守ろうとする日本人に対して発せられたことで「ちょーせんじん」という言葉が差別用語として使われていたのだった。この蔑むためのネタ、笑いのネタとして消費することに対して私は怒りを禁じえなかった。フリージャーナリストの安田浩一さんが『なぜ市民は“座り込む”のか-基地の島・沖縄の実像、戦争の記憶』(2023年、朝日新聞出版)にて、沖縄の基地反対運動に対して向けられる「笑い」について徹頭徹尾批判をするように、「人々の怒りを『ネタ』として消費するだけの人間は、自らの加害性にとことん無自覚」(安田さん)なのである。
「笑い」以外で消費する者たちもいる。現在、パレスチナで起きているイスラエルによるジェノサイド(民族大量虐殺)、エスニック・クレンジング(民族浄化)に対して、それを実行するイスラエルや後押しする米国の嘘や主張を無批判的に垂れ流すいわゆる識者やメディアがある。その中でも醜悪なのは、イスラエルの主張を垂れ流しながら、同時にパレスチナ人に向けて同情の「涙」を流す者だ。そのような眼差しは何の解決にもならず、自己満足のための「ネタ」でしかない。
自らの土地を追われたパレスチナ人たちがこれまでも投石による抵抗を試みた際にもイスラエル軍は銃で応じてきた。米国の援助を得て最新技術を有するイスラエル軍はパレスチナ人の抵抗を徹底的に抑え込み、難民キャンプへの襲撃や民間人虐殺を繰り返してきた。そのたびに日本のメディアはどれだけパレスチナ人たちの「声」を報じただろうか。この非対称性を無視して「10月7日」の悲劇だけで語られる文脈はイスラエルへの同化に過ぎない。(ちなみにこれは「9・11」の悲劇を強調し対『テロ』戦争という名のもとに中東での無差別攻撃や侵攻を繰り返した米国のパターンと通ずる)
英国の委任統治期のパレスチナに生まれ、後に米国に移り住んだ「知の巨人」、エドワード・W・サイードは「知識人」についてこう綴った。
「安易な公式見解や既成の紋切り型表現をこばむ人間であり、なかんずく権力の側にあるものや伝統の側にあるものが語ったり、おこなったりしていることを検証もなしに無条件に追認することに対し、どこまでも批判を投げかける人間である」(エドワード・W・サイード著『知識人とは何か』より)
植民地主義に伴い現在進行形で問われている加害の責任などに対して「中立」「どっちもどっち」「両論併記」の報道や見解は権力への迎合であると同時に抑圧されている側、差別されている側をさらに踏みつけ、被害者を加害者にする行為だ。そのような「専門家」「ジャーナリスト」は同時に、批判的に論じることのできない自らの無知を公に曝け出している。
勢いで書き綴り、少し論点がずれたかもしれないが、ともかく私は「笑い」や「中立」を装いながら流される同情の「涙」のネタとして被害者を消費する行為に対して同様の怒りを覚える。前者は足を踏みつけながら嘲笑う行為であり、後者は足を踏みつけながら手を差し伸べる行為である。結局、踏みつけていることには変わらない。
被害者にも加害者にもならないために私自身、記者としての責任を果たしていきたい。(哲)